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フィクションを通じたデザインリサーチ──建築史のなかのSF的想像力(上)

こんにちは、Design Alternatives編集部の瀬下です。今月はいつもの対談+ラジオとは違って、太田による論考と解説記事をお届けします。

というのも、実は「デザインと批評」という特集をお届けするつもりだったのですが、それができない事態に見舞われてしまったからです。それは、いまこの文字を打っている瞬間、瀬下と太田がホーチミンから台北に向かう飛行機のなかにいるということです。

英語が苦手で7年ぶりに海外に行ったぼくは、時差の存在を完全に忘れていたのです……。このまま飛行機から降りて対談原稿を直してアップすると、23時59分を過ぎてしまう。そのため、太田が今後使う予定だった原稿を、今月分の原稿としてアップロードすることにしました。

イレギュラーな理由で掲載する原稿ですが、この文章はDAにとって重要なものです。どちらの原稿も、デザインリサーチという分野から建築や現代思想、SFについて考えることで、デザインが思考 / 試行しうる領域を押し広げていくものだと思います。DAをはじめて3ヶ月が経ち、このマガジンに期待されるものがわかってきた気がしています。読者はまだまだ少ないですが、今回の原稿は今後DAでやるべき特集のタネが詰まっています。楽しんで読んでいただけたら幸いです。

キーワード:意味論的転回(Semantic Turn)、実践的デザインリサーチ(Design Research through Practice)、クリティカル・デザイン(Critical Design)、ペーパー・アーキテクト(Paper Architect)

◉はじめに

 デザインという営みを外装や意匠の操作に限定すること、すなわち「かたちを与えるもの」としてデザイナーを理解するパースペクティブは、もはや廃れつつある。そのような状況を「意味論的転回」と総括したクラウス・クリッペンドルフの議論に基づき、「人工物」という語義の拡張にみられるような社会的次元のシフトを「工業化社会/ポスト工業化社会」という区分で理解することができる[クリッペンドルフ(2006=2009)p.15]。

 工業化社会におけるデザインは、一方ではフォーディズムに象徴されるような技術中心の設計手法として現われた。他方、デザイン史においては、1920年代頃に活躍した近代建築の巨匠らによる、素材や工法との対話のなかで建築独自の視覚言語を開発する試みとして現われることとなる。いずれも、その主題はテクノロジーの馴致・開発であった。

 そして両者は、それぞれのかたちで批判的検討を加えられてきた。一方のフォーディズム由来の消費社会化はフランス現代思想、とりわけジャン・ボードリヤールの消費社会論のなかで議論された。それは商品=モノが十全に流通した結果、モノの使用価値ではなく象徴価値が私たちの欲望を喚起するという、モノの記号論的な分析であった。他方、1960年代の一群の建築家たち──磯崎新が「建築の解体」[磯崎(1997)]世代として総括した作家たち──は、近代建築を乗り越えるべき対象としてアンチテーゼを唱えた。彼らの議論は、ロバート・ヴェンチューリの表現を借りれば「Ordinary and Ugly」な建築であり、ハンス・ホラインであれば──物理的な存在としての建築物ではなく、発達する諸メディアの網の目のなかに暮らすようになった状況への総括としての──「すべては建築である」というテーゼなど、近代建築からの断絶を宣言するものであった。

 一方ではフランス現代思想において、他方では建築デザインにおいて展開された批判の中心には、デザインされた人工物が「意味」を伝達するメディアとして立ち現われてきた様子への違和が表明されているといっていい。日用品も住宅も衣服も、いずれも記号的な商品=メディアとして私たちと関係を結び、そして、私たちはそれらがかたちづくる網状のメディア環境のなかに住まっている──住まわされている。

 このようなポスト工業化社会の見取り図を背景とすることで、テクノロジーという異質なものを社会的に馴致させる媒体として「デザイン」という営みを捉えることができる。多木浩二や柏木博の系譜から成るデザインのメディオロジーという方法を現代的に変奏するなかで、今後実現され普遍化していくであろう先端技術と社会を展望することが、本論にとって広義の目的である。

 そのような背景と目的を携えて、本論は、近年のデザインリサーチにおけるクリティカル・デザインという領域・手法において「フィクション」が方法論的に用いられているという事実に着目しつつ、それが推論的に未来の社会を展望しうる「研究」としての意義を持つ可能性を検証していく。

 クリティカル・デザインとは、上述の工業化社会のデザインへの批判を言語的な提言/記述によってではなくデザイン的な提案/実践によって展開するものであり──したがって必然的に──、デザインという営み自体の意味や価値を内在的に問い直すものでもある。このことのデザインリサーチの理論内部での位置づけについては、第一章で議論される。

 第二章では建築史のなかにクリティカル・デザインの前史を探るべく、ペーパーアーキテクトを主題としている。紙上の建築とは、建築が通常そうあるようには大地を支持体とすることはせず、むしろ積極的に大地からの遊離を推し進めることで建築をメディアとして純粋化するような実践である。いきおい、そこでの表現は「商業的には」実現されえないものが多いが、むしろこれを通じて、商業的に人工物を提供するだけではないデザイナーの在り方からクリティカル・デザインを相対化することができる。その結果、クリティカル・デザインの性格が商業的/消費社会的な文法に基礎を置くものであることが際立つこととなる。

 第三章は、ここまでの文脈を踏まえて筆者によって実践されたプロジェクトの紹介である。一方ではクリティカル・デザインのエッセンスであるポスト工業化社会におけるメディアの役割という観点が、日常的な雑誌媒体を転用するという同プロジェクトのコンセプトに寄与していること、他方では、フィクションの題材/形式として雑誌媒体を用いることで、未来の社会を展望するうえで共感可能なメディアのデザインが可能となるという仮説が示される。

◉一章:デザインリサーチを通じて未来の社会を想像する

思いがけない破局的な出来事の突発を前にして、私たちがこのように無力の確認を余儀なくされる以上、私たちを事故に晒す[qui nous expose à l’accident]この習慣的な傾向をひっくり返す試みをせざるをえなくなる。[中略]すなわち、今や、事故を晒す=展示する[exposer l’accident]ことを旨とする博物館学、あらゆる事故を、もっとも通俗的なものからもっとも悲劇的なものまで、もろもろの自然の惨事から各種の工業・科学的な災害まで、そして、しばしば無視される種類のもの、幸運な偶発時、まぐれあたり、雷に撃たれたような愛の衝撃、さらには「とどめの一撃」までも、避けることなく展示することなのである[ヴィリリオ(2002)=本間(2013)]。

●1-0.デザイン研究の射程

 デザインは常に、問題解決[solution]と価値創造[creation]という二面性を持つ。デザイン的な提案によって問題を解決した先には、価値や意味の変化がつきまとう。かつてナポレオン三世とオスマン男爵がパリのスラム化やコレラの感染を憂いて、上下水道の整備から目抜き通りの建設、スラムの放逐といったように都市スケールでのデザインを行なった結果、健康や衛生といった観念そのものが生じた[北山(1991)]。デザインによる問題解決は、新たな価値──あるいは新たな社会問題──の創造を促す。

 このような歴史的な事実を踏まえれば、デザインを通じて未来の社会を想像し、問いを投げかけていくことも可能であるように思われる。技術的な想像力を用いて未来の社会への問題提起を行なうことに特化したデザインリサーチの手法は、クリティカル・デザインと呼ばれる。

 本章はクリティカル・デザインを主題としつつ、その背景としてのデザインリサーチの歴史[1-1]およびデザインリサーチとしてのクリティカル・デザインにまつわる議論[1-2]を概観する。そしてクリティカル・デザインの事例分析を行なう[1-3]。

●1-1.デザインリサーチの歴史

 デザインリサーチとは、よりよくデザインを行なうために実施される領域横断型の学術的な手法である[Koskinen, et al.(2011)]。1962年にインペリアル・カレッジ[ロンドン]にて、The Conference on Systematic and Intuitive Methods in Engineering, Industrial Design, Architecture and Communicationsが行なわれた。まずはこのカンファレンスを、デザインリサーチの象徴的な起源として挙げることができる。

 この時代の欧米社会は戦後復興を遂げつつあり、戦場となったヨーロッパでは建築物を安定的に供給する要求が高まった。他方、アメリカでは豊かな物質文化への希求が生じた。このように当時の欧米では、建築物から生活用品に至るまで、幅広いレベルでの人工物の大量供給が求められており、その結果、一回的な職人技を再現可能なものとすべくデザインの手法を客観的に定式化する機運も高まった。

 このような社会的背景を受けて、先のカンファレンスは開催された。実際、参加者や主催者のなかにはクリストファー・アレグザンダーやロジャー・コールマンといった面々が並ぶ。このカンファレンスでは「デザイン・メソッド」という視座が成立し、具体的にはハーバート・サイモンのデザイン・サイエンス[サイモン(1968=1999)]に代表される定量的なアプローチや、その反省から定性的なアプローチとして制作者の省察を対象とするドナルド・ショーンの研究[ショーン(1983=2007)]などが生まれていった。その後デザインリサーチは、ドナルド・ノーマンによる認知科学[ノーマン(1988=1990)]との接合や、製品と人間との関わりを人間にとっての「意味」に基づき解釈する「製品意味論」[クリッペンドルフ(2006=2009)]などへと発展していった。

 これらはいずれも、人工物の「制作/製作」からその「使用」に至るまで、人間と人工物との関わりについて客観的かつ科学的な分析を志向している。繰り返せば、これは戦後復興という社会的な要請にデザインが対応するべく生み出されたデザインのための研究である。

 直接的にせよ間接的にせよここでの成果を享受するかたちで、現在においては生活上のほぼあらゆる人工物が大量生産によるものとなっている。その変化に応じて、デザインリサーチは、社会の有り様を分析というかたちで後追いすることを超えて──そして見ようによれば「研究」という枠組みすら超えて──、社会の有り様を「想像」するような研究=実践となりつつある。次節では、それを確認する。

●1-2.作品展示を通じたデザインリサーチ

 とりわけ未来の社会についての問題提起を志向するタイプのデザインリサーチは、コスキネンらによって「作品展示を通じたデザインリサーチ[Design Research through Practice from the Showroom]」と呼ばれている[Koskinen et al.(2011)]。これは、冒頭に述べた「価値創造」に必然的に伴う社会の変化を事前に見越して、それを想像させるようなプロダクトの提案/制作をすることである。以下にコスキネンらの定義を引用する。「[作品展示を通じたデザインリサーチは]人びとが社会を理解し経験する方法を疑問視し、議論を通じて『変化』を引き出す」[Koskinen et al.(2011), p.94/拙訳]。この系譜は、1990年代におけるイギリスのRoyal College of Artに始まる。同校デザイン・インタラクションズ科の教授であったアンソニー・ダンの博士論文『Hertzian Tales』[Dunne(2006)]のなかで定式化されたクリティカル・デザイン[Critical Design]と呼ばれる研究領域・手法がそれであり、作品展示を通じたデザインリサーチの代表例として取り上げられている[Koskinen et al.(2011) p.90]。

 では具体的に、クリティカル・デザインとはどのような実践か。ダンによれば「[クリティカル・デザイン]はコンセプチュアルな電気機器のデザインを通じて、私たちが住まっている人工環境について異議申立てする方法を確立すること」[Dunne(2006) p.xv/拙訳]である。ここで重要な点は、プロダクトの制作およびその展示によってその使い道を鑑賞者に考えさせ、既存の道徳や行動、社会についての省察[reflection]を促すことである。言い換えれば、プロダクトや──その経験としての──インタラクションのデザインによって問題提起を行なうのだ。

 とはいえ一見すると、このような目的はデザインのみならずアートによっても達成可能であるように思える。この点に関して、Dunne&Raby自身による用語法を確認しておこう。「それはアートではないのか?」という質問への回答が以下である。

クリティカル・デザインは方法やアプローチの点ではアートに多くを負っていますが、しかし両者は区別されなければなりません。わたしたちはアートをショッキングで、極端なものと見なしますね。他方でクリティカル・デザインは毎日の生活とより近しく、その近さにおいてこそ、この実践は力を持ちます。あまりにも奇抜であることは、わたしたちの日常とは関係のないアートとして退けられてしまいますし、逆に、普通過ぎることはわたしたちになんらの波風を立てることもなく過ぎ去ってしまいます。その意味で、取り扱いのしやすいいわゆる「アート」ではなく、日常性を帯びた「デザイン」に留まることによってむしろ困惑を生むことができます。ひいては、毎日の生活がいまとは別様の仕方でありうることを示したり、ものごとは変えうるのだと示すこともできることでしょう[Dunne&Raby(2011)/拙訳]。

 ダンの主眼は、クリティカル・デザインは私たちの日常とより密接であることによって、日常へと介入する強度を獲得できるということにある。アートとして括られてしまうと、日常とは関係のないものとして処理されてしまいうる。であればこそ、クリティカル・デザインが「デザイン」と自称することの意味を見過ごすわけにはいくまい。つまり、家電製品や書籍、情報端末といった現代社会を彩る「ありふれたもの」のかたちをとることで、それが成立している社会の有り様を省察することへの導入として機能するのだ。

 アートとの違いを確認したうえで、クリティカル・デザインの対象が日用品であることの意味を消費社会との関わりから掘り下げることができる。柏木(1989)によれば、冷戦構造崩壊以後の消費社会においては消費行動こそが政治的な問題と直結するとされる。

ありうべき社会像を描き出す政治的な展望がないとすれば、こうした市場経済の論理がそのまま唯一の政治的展望となってしまい、その政治的展望によって、わたしたちの欲望が支配・管理されても不思議はない。わたしたちは管理された欲望を、自由な欲望とはきちがえつつ、ひたすら消費(そして生産)しつづける自動機械のようになってしまっているのである[柏木(1989)p.173]。

 このような文脈を踏まえると、コスキネンらの述べる展示空間[Showroom]とは、消費の場を立ち上げ、人工物との──政治的な──関わりを仮構する現場として翻案することができるだろう。クリティカル・デザインは、鑑賞者が展示空間に設置された商品/製品を、消費者という立場/視点から経験することを契機として、問題提起を行なうことができるのだ。鑑賞者─アートピースの関係性に擬態しながら、消費者─プロダクトの関係性を演出することで果たされているのは、日常性に異質さを呼びこむ効果である。

●1-3.未来のフィクションをデザインする/未来のデザインを夢想する

 改めて確認すれば、作品展示を通じたデザインリサーチとは、「人びとが社会を理解し経験する方法を疑問視し、議論を通じて『変化』を引き出す」ことがその定義とされた。これを参照するに、作品展示を通じたデザインリサーチの目的とは──議論の誘発それ自体ではなく──あくまで社会への理解の仕方、ひいては可能態としての未来の在り方[水野(2014)]に変化を生じさせることにある。このような目的に照らしてみたとき、それを十分に満たしているクリティカル・デザインの実践はどれほど存在しているだろうか。本節では、クリティカル・デザインの作品を分析し、問題提起に留まらず可能態としての未来のあり方を引き出すことに成功している作品の特徴を抽出することを試みる。

 まず、ポーランド人アーティストであるクシシュトフ・ヴォディチコによる《Homeless Vehicles》(1988–1989)を取り上げたい。これは路上生活者のためのシェルターである。都市の間隙に居住スペースを立ち上げるホームレスたちはえてして無視され、ありふれた都市の風景と化している。だが、彼らを保護するミニマルな居住空間である《Homeless Vehicles》は、それを通じてホームレスたちを異質なものとして前景化する。このように、ヴォディチコは公共空間を対象に、普段見過ごされている権力構造や政治の有り様を露わにする。「政府によって完全に社会化された空間において、人びとが声を上げる権利は、完全に無きものとされている。わたしは「沈黙のうちに声を上げる技術[technique of speaking silently]」を提案する」[Dunne(2006) p.62]というメッセージにも、そのような目論見は見て取れる。

 たしかに、彼の実践はデザインを通じて社会に対する異議申立て、ないしは問題提起を行なうことには成功している。また、実際にアンソニー・ダンの著書においてはクリティカル・デザインの事例のひとつとして挙げられている。しかし彼の問題提起は、可能態としての未来社会というよりは、現在の延長上に措定された未来に属している。言い換えれば、既存の価値観や問題構成を維持したままの問題提起である。これに対して、続く二つの事例は、問題提起というよりは目の前の現実を「未解決化」することで新たな社会への想像力を開くものである。

 アレクサンドラ・デイジー・ギンズバーグとサシャ・ポーフレップによる《Growth Assembly》(2009)[Dunne&Raby(2013=2015)]というプロジェクトを取り上げよう。これは合成生物学[Synthetic Biology]の成果を応用して、植物の中に機械の部品の「種」を埋め込み、成長/成型させて完成させるというビジョンを提示したものだ。豊富なビジュアルとイメージ映像を通じて、本作品は機械が有機的な植物に取って代わる未来像と、そこでの生産ラインの在り方──工場はすべてプランターのようなものになる──を鑑賞者に問うた。そこから鑑賞者は、たとえばその時代の物流はどうなっているだろうかという問いであったり、その時代の工場労働の在り方といったような《Growth Assembly》には描かれなかった物語を想像することができる。

 さらに、Dunne&Raby自身による《United Micro Kingdoms》(以下《UMK》)プロジェクト[Dunne&Raby(2013)]を取り上げる。このプロジェクトは、国家や社会体制がどのように設計されうるかという大きな問題を、デザインによる思考実験というかたちで問うている。具体的なあらすじは次のようなものである。

二一世紀型の国家を発明すべく、イギリスは〈デジタリアン〉〈バイオリベラル〉〈無政府進化主義者〉〈原子力共産主義者〉のグループそれぞれに四州を分有させた。果たして、どの主義が人類の生き残りに適した社会体制を築くことができるか。[Dunne&Raby(2013=2015) p.174/拙訳]。

 このプロジェクトの背景には、テクノロジーの利用が常に政治学的な問題と関わって表出するという視座がある。そのためそれぞれの主義が採用する(であろう)交通システムに着目し、四種類の交通手段のモックアップを作成している。「テクノロジーは倫理的には中立だろう。我々がそれを使うときにだけ、善悪が宿る」[Gibson(1995)/拙訳]というわけだ。

 ここまでの三つの事例を総括すると、時制的に現代に属するにせよ未来に属するにせよ、なんらかのパラレルワールドを想定しながら、そこで日常的に「消費」あるいは「使用」されているであろう日用品──ホームレスのシェルター、植物化した機械部品、自動車──を制作することで、ありうる未来を浮き彫りにすることが企図されている。ダン自身の言葉に則せば、これはフィクション自体を創作の対象とするのではなく、フィクションが寄って立つ〈Prop〉を制作の対象とする、というようにパラフレーズが可能である[Dunne&Raby(2013=2015) 邦訳書p.136]。プロップが「支柱」という訳語のほかに(映画における)「小道具」という意味を持つことは、この文脈上で大きな示唆を与えてくれる。なぜなら、小道具と作品世界との関係性にフォーカスすることで、さらなる読解が可能となるためである。

 どういうことか。まず《Growth Assembly》および《UMK》においては、作品それ自体がストーリーを語るのではなく、むしろ、作品を支柱として作品外の「複数の」サブテキストが想起されていく構成が取られている、と指摘することができるだろう。そしてそのサブテキスト群の生成は、鑑賞者の想像力に委ねられており、発散型の志向性を有している。他方でたしかに、ヴォディチコの《Homeless Vehicles》もまた作品を支柱としてサブテキストが読み込まれうる契機を宿していると言える。しかしながら、そこでは作者の発見した問題を暴き立てることで、その解決へと至る「ひとつの」サブテキスト、すなわち収束型の想像力が志向されている。

●1-4.結論

 本章では、クリティカル・デザインを主題としながら、作品展示を通じたデザインリサーチによって、未来の社会への想像力を開きうる可能性を見てきた。そしてクリティカル・デザインの事例を分析するなかで作品と作品世界との関係性について論じた。ここから得られた結論として、収束型と発散型という想像力の区分は、そのまま問題の提起と問題の未解決化という目的設定の区分とも重なっていることが指摘できる。作品展示を通じたデザインリサーチが可能態としての未来を引き出すことを目指す以上、「異議申立てとしての問題提起」よりも「問題の未解決化」を可能とするような、発散型の想像力を喚起するプロップをこそ、制作の対象とすべきであると結論づけられる。

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