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フィレンツェ①[2024.2.17]

今日はフィレンツェに向かう。テルミニ駅7時2分発の電車だ。まず、ホテルのあるトッレ・アンジェラ駅からテルミニ駅まで行かなければならないが、これが40分ほどかかる。したがって5時過ぎに起きた。ローマ中心部から遠いホテルをとってしまったことが悔やまれる。もっと近ければもう少し寝れていたのに。

なんだかんだ記憶に刻まれることになったトッレ・アンジェラ駅。改札を通り抜けたときは1人しかプラットフォームにいなかったが、ぞろぞろと人がやってきた。

電車に乗ってから数えたが、サン・ジョバンニ駅での乗り換えを挟んでトッレ・アンジェラ駅からテルミニ駅まで13駅もある。我ながら呆れてしまった。

テルミニ駅に到着し、電車の時間まで余裕があったのでカフェでサンドを買った。その後、電光掲示板で乗り場を確認すると、est1とある。だが、そんな乗り場は見当たらない。急いで案内所で確認すると、一番乗り場を右に曲がって、ずっと奥にあると言う。間に合わないかもね、と言われたので、スーツケースを引っ張って走った。

200メートルほどを走ると、乗り場が見えてきた。ほっとして乗り込んだが、そのあとすぐに電車は発車した。危ないところだった。

一人席が空いていたので、座ることにした。通路を挟んで隣は2人席で、中国人の女性2人が座っている。

駅で購入したサンドを食べた。イタリアのサンドはおいしい。日本のコンビニと比べても遜色がない。

車窓からはアペニン山脈が見えている。山脈に沿うように、電車は北に向かっていった。

車内では旅行の記録を書いたり、本を読んだりして過ごした。そうやって時間を過ごすのは実に心地が良い。

10時48分、フィレンツェ・サンタ・マリア・ノヴェッラ駅に到着。駅に降り立つと、すでにタバコの匂いがしている。イタリアはどこでもそうなのかもしれない。

お腹が空いていたので、駅構内のおいしそうなサンドが並ぶ店に入った。

ローストピザとサンドにカフェラテ。明日の朝も来たいと思うぐらいおいしい。

腹ごしらえを済ませたので、フィレンツェを散策することにしよう。駅を出ると、みんな左の方に向かっている。流れに従って行くことにした。

歩き始めてすぐに気付いたが、フィレンツェは落ち着いている。観光客は多いが、街は綺麗に保たれている。ローマが混沌としているのならば、フィレンツェには秩序があるように感じた。とはいえ、この感覚は夕方以降に崩れることになる。

巨大な建物が見えてきた。こんな大きな建物は見たことがない、というぐらいに大きい。

近くまで行くと、全貌が見えた。

サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂。別名ドゥオーモ。手前にサン・ジョヴァンニ礼拝堂、右手にはジョットの鐘楼がある。

あとで時間があったらもう一度来てみよう。一旦、アルノ川の対岸に行ってみることにした。

通りは沢山の人で賑わっている。

フィレンツェの風景。

アルノ川までやってきた。

この橋を通り過ぎてもっと先まで行くと、トスカーナ大公の宮殿であるピッティ宮殿が見えてくる。

もとはメディチ家のライバルだった銀行家のピッティが15世紀に建設を始めたもの。彼の死とともに建設が中止されたが、16世紀にメディチ家のコジモ1世が買収したことで再び建設が進んだ。コジモ1世は私的な空間としてこの宮殿を利用した。

中は美術館も入っている(パラティーナ美術館、別名ピッティ美術館)。

ボッティチェリやラファエロといったルネサンス期の画家だけでなく、ムリリョ、ルーベンス、ファン・ダイクといったバロック期の画家の絵も展示されている。

コジモ1世が来ていた服。15世紀に実存していた人物が来ていた服が残されている。これには思わず見入ってしまった。

ぶらぶらと見て回って外に出た。みんな宮殿の前の広場に座り、のんびりしている。ヨーロッパの人はのんびりするのが本当に好きみたいだ。僕も座って空間を共にすることにした。

さて、次はミケランジェロ広場に行ってみよう。フィレンツェの町並みが一望できるとのこと。

ミケランジェロ広場へは、アルノ川沿いを歩いていけばよい。川の側を歩いてくのは気持ちがいい。アルノ川沿いは走っている学生が多い。川に目をやると、これまた学生がボートを漕いでいる。大学の部活だろうか。スイスイと進んでいく女子学生を、他の2人の男子学生が見つめている。

ミケランジェロ広場へつながる坂道が見えたので、登っていった。いい運動になる。

頂上についた。ドゥオーモとジョットの鐘楼が見えている。メディチ家が統治した街、フィレンツェ(共和国なので、統治したというのは言いすぎかもしれない)。15世紀初めにジョバンニが銀行支店を現在のイタリアに拡大させると、同じく15世紀のコジモ、ロレンツォの代には最盛期を演出した。コジモはイタリアを超えてジュネーブやロンドン、アヴィニョンといった都市にまで支店を拡大。融資をカードにミラノ、ヴェネツィア、ナポリ、ローマといった都市間の均衡を図った。ロレンツォはルネサンスのパトロンとしてボッティチェリやミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチを援助した。

1492年にロレンツォが死ぬと、1494年にはイタリア戦争が勃発。フランスのシャルル8世はフィレンツェに侵攻したため、メディチ家を追放された。代わりに政治を行ったのは、神権政治をうたうサヴォナローラだった。しかしサヴォナローラはローマ教皇から異端と判断されて処刑され、メディチ家は再び戻ってきた。

その後、15世紀初めにはロレンツォの次男であるジョヴァンニ枢機卿がレオ10世として教皇となり、メディチ家の伝統である勢力均衡を図りながら、余ったカネは芸術の保護に充てた。これは教会財産の赤字を招き、以後教皇庁は免罪符を刷ることで歳入をまかなった。これが後の宗教改革に繋がっていく。

1521年にフランスのフランソワ1世と神聖ローマ皇帝カール5世の間で(狭義の)イタリア戦争が勃発すると、27年のローマ劫掠を招いたためにメディチ家は再度追放された。

16世紀後半から、メディチ家は周辺の土地も合わせてトスカーナ大公となるが、18世紀に断絶した。

そんな歴史を持つフィレンツェにやってこれて良かった。

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