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理念国家

 国家と言うものは、まずその理念があって出来るものである。理念が明瞭ではない国家も存在はするが、理念が皆無の国家は存在しない。
 何故ならば、国家とは自然発生的に出現せるものでは無く、人間がその意思で建国し、発展させ、維持していくものであるからである。人間がその意思で国家を建国する際、当然「このような国にしたい」と言う意思があるのである。
 無論、国家の中には「民族国家(国民国家)」のように「単一民族」が当然に国を形成する場合もあるが、それについても「この民族の国を作りたい」という意思がまずあって、それで単一民族の国家が出来るのである。無論、そのようなことに拘らない人たちが国を作るとそれは「多民族国家」となる。多民族国家の場合は、民族に代わる理念が必要である。アメリカ合衆国が「自由」の理念を忘却した場合、それはアメリカではなくどっか別の国であること、言うまでも無い。

各国の國體の分類

 各国の理念をその國體(constitution)によって分類すると、大きく「専制」「君主制」「共和制」とに分けられる。
 「専制」は国家の支配者が法に優越することが認められている体制である。法を無視する権力者はどこの国にもいるが、そもそも支配者に法を守ることなど最初から期待されていないのが専制である。
 専制の国では支配者の気紛れで全てが決定される。国家としては認められないが「平壌政府」(自称「朝鮮民主主義人民共和国」)は専制である。中国の歴代王朝も専制を國體としていた。
 「君主制」は国家の君主が法に基づいて統治権を総攬する体制であるが、歴史上様々なケースがあり得る。君主が法に基づかずに表明した意思は何ら国民を拘束することが出来ない。かつて聖武天皇が律令の規定を無視し自身の母親を「正一位大夫人」にしようとした際、太政官の奏上を受けてそれを撤回した事実は、君主の意思は法に従って表明されないといけないと言う原則によるものである。
 従って、君主制の国において君主は一種の法人である。イギリスでは今でも国王を法人として扱っている。日本においては戦前の憲法学者である筧克彦先生が天皇を表現普遍人としたが、この表現普遍人と言うのも法人に類似する概念である。
 「共和制」は法に基づいて統治すると言う意味では君主制と同一であるが、その君主の存在しない、又は、君主の存在を必要としていない國體を言う。
 アメリカ合衆国の理念は専ら『アメリカ合衆国憲法』に記された通りであって、人格を持った君主の存在は必要とされていない。
 一方、中華人民共和国においては国家の理念を中国共産党と言う人格を持った前衛政党が体現しており、いわば中国共産党が君主の役割を果たしている。中国共産党は憲法の上位に立っているが、その支配者はあくまでも中国共産党という人格ある組織の一員としてのみ権力を行使できるのであり、例えば習近平国家主席がその気紛れで中国共産党を離党すると最早一切の権力を喪失すると言う意味で、専制とは区別される。

表現普遍人

 国家は「人為的に作られた権利能力の主体」である以上、如何に国家を法人と明記した法律が無くとも、国家に人格があることは疑いようがない。
 この国家の構成者は皆、独立した人格を持っている。以下、筧克彦先生の定義を参考に考えると、独立した人格を持った個人と言う意味では、皆「独立人」である。
 だが、独立人は同時に表現人でもある。表現人とは「国家を表現している人」である。各人の行動は独立人と表現人として「同時」に解釈できる。
 例えば、日本に中国人が旅行をして買い物をする。これは中国人の、例えば「張さん」が独立人として買い物をした、という解釈もできる。しかし、同時に「日本の商品が中国に売却された」という解釈も可能である。そうすると、その中国人は「張さん」という独立人であると同時に「中国」という表現人なのである。
 もっとも、この「張さん」が中国から日本へ亡命している場合、彼は「中国」を表現しているとは言えない。「張さん」は「中国」の法律に違反して日本へ入国しているからである。つまり「張さん」という個人の意思と「中国」という国家の意思とが相反しているのである。
 表現人の行動は全て合法的なものである。法令は国家の意思であるからである。
 例えば、「麻生太郎」という男が「日本国財務大臣」であった頃に行った合法的な行為は全て「日本」の意思と解釈されるが、彼が仮に「日本国財務大臣」の名前で「公文書改竄」という違法行為をした場合、それは「日本国財務大臣」の行動としては無効であり、専ら「麻生太郎」という独立人が行った行為として刑罰が与えられなければならない。この場合、「公文書改竄」は「日本」の意思では無く「麻生太郎」という犯罪者の意思で行われた行為と言うことになる。
 もしも「公文書改竄」を行った主体が「麻生太郎」では無く「日本国財務大臣」であるならば、後任の財務大臣が罰を受けなければならないと言うことになるが、そのようなバカなことは無い。「麻生太郎」は合法的に権力を行使している時にのみ、彼の行動は「日本」の意思となるが、そうでない場合は「日本」の法律によって裁かれるべき犯罪者である。
 この「財務大臣」というのも、単なる職名ではなく、人格を持った存在である。例えば、日本郵政の最大株主は「財務大臣」となっている。これは「財務大臣」という人格が株主なのであって、別に前財務大臣である麻生太郎さんが現財務大臣である鈴木俊一さんに日本郵政の株が譲渡されたわけではない。
 財務大臣と言うのは、この任にある独立人が誰であろうとも、一貫して一つの人格を有し、株も所有している。一見、株式会社その他の法人と類似しているが、大きな違いもある。株式会社の行為は必ずしも「日本」の表現とは限らないが、「財務大臣」の行為は全て「日本」の行為とみなされる。「財務大臣」とは「日本」の意思を表現するための人格の一つであり、つまりは表現人である。
 独立人が誰であっても普遍的に存在するのであるから、このような表現人を「表現普遍人」と言う。
 天皇陛下も「表現普遍人」である。神武天皇から今上天皇まで、全て一つの人格と見做される。独立人としての意思は異なることはあれども、表現人としての意思は個人的なものでは無いのである。
 例えば、昭和天皇が国家元首として行った国事行為を「今昭和天皇はあの世にいますから、あれは今の日本とは何ら関係ございません」等と言うことは通用しない。「天皇」と言う地位にある者が行った行為であることが重要なのであるからである。
 また、実際に今上陛下は神武天皇から上皇陛下までの歴代天皇と一心同体であらせられるのである。

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