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大東亜戦争の「開始」と「終結」について

 「大東亜戦争」と言う表題だけ見て、「こいつは立憲民主党党員なのに大東亜戦争肯定論者である!自民党と一緒だ!」と曲解する輩が出てくると困るので先に言っておくが、私は大東亜戦争肯定論者ではない。
 ただ、これは重要なことであるが、大東亜戦争で戦死した兵士たちに罪はない。兵士たちは命令に従って戦っただけであり、その中には「この戦争はアジア解放のための戦いである」と言う政府の宣伝を信じて、ただ善意で欧米列強の植民地支配と戦った人たちもいた。
 先程「政府の宣伝」と述べたが、欧米列強がアジア諸国を植民地支配していたのは紛れもない事実であり、そこからアジア諸民族の解放を目指して戦死した兵士たちを「英霊」と呼ぶことには、私は躊躇しない。
 一方、自民党は英霊が戦った相手である欧米列強と一緒になって侵略戦争を行うことを支持しており、例えばアメリカによる侵略戦争であるイラク戦争を支持していた。インドやトルコと言ったアジアの親日国の多くはイラク戦争で派兵をしていないのに対して、日本は真っ先にイラク戦争支持を表明した。
 なお、昨年の自民党総裁選で党員票一位となった河野太郎大臣の父親の河野洋平元議長は、イラク戦争の際に「大義の無い戦争だと思うが、支持する」と表明した。世間では河野一家を平和主義者扱いするものもいるが、大義の無い戦争でもアメリカの侵略戦争を支持する輩が平和主義者のはずがないのである。
 ここから本題に入るが、大東亜戦争の評価とは別にそもそも「大東亜戦争」の定義が論者によって異なる。それは「大東亜戦争」と「太平洋戦争」を同義と考えている人がいることでも判る。
 12月8日は日本がアメリカとイギリスに宣戦布告をした日であるので、大東亜戦争は昭和16年(西暦1941年、皇暦2601年)12月8日に始まったと考えている人が少なくない。
 そして、そういう人たちの内、左派は「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換え、右派は「太平洋戦争」を「大東亜戦争」と言い換え、言わば大東亜戦争と太平洋戦争とは「思想によって言い方が違う」だけで「指している実態は一緒」と勘違いしている人が多いのである。
 現実には、大東亜戦争は大本営政府連絡会議において「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされており、支那事変の始まった昭和12年(西暦1937年、皇暦2597年)7月7日が大東亜戦争の開始の日である。それに対してGHQが押し付けた「太平洋戦争」と言う呼称は、あくまでも日本がアメリカとイギリスに宣戦布告して以降の期間のみを指しており、「アメリカ目線」の言い方である。
 なお、中国は大東亜戦争のことを「抗日戦争」と呼んでいるが、こちらは満洲事変を含めた言い方である。
 一部左翼にはどうしても「大東亜戦争」と言う言葉を使いたくない人もいるようで、それは思想信条の自由ではあるが、「太平洋戦争」と言うと中国との戦争を無視することになり、彼らの好きな日中友好にも反する。だから最近は左派でも聡明な人は「アジア太平洋戦争」と呼んでおり、こちらは大東亜戦争と同じ意味であるが、学校教科書は未だに「太平洋戦争」と呼んでおり、日本が左右を問わずアメリカの属国であることを自白している。
 この視点に立つと、東條英機首相に開戦の責任があるというような主張は全くの誤りであることが判る。実際には、大東亜戦争開戦時の首相は近衛文麿なのである。
 よく支那事変の拡大を「軍部の暴走」の一言で片付ける者がいるが、それは政治側の責任を覆い隠すものである。大東亜戦争開戦のキッカケである盧溝橋事件が起きた際、現地では停戦協定が結ばれていたにも拘らず、事件後わずか二日で中国への派兵とその為の支出を閣議決定していた。近衛内閣が「不拡大方針」を出したのはその後のことであり、本気で戦争回避に動いていた形跡は見当たらない。
 むしろ東條英機首相は大東亜戦争の目的に「道義に基づく共存共栄の秩序を確立」を加えただけ、まだ“良心的”であった。これにより「欧米列強の植民地支配からアジアを解放する」という「解放戦争」との位置付けが可能になったからである。
 もっとも、「解放戦争」と言うのは国際法上「侵略戦争」である。ただ、繰り返すがその「侵略戦争」を始めたのは東條英機首相ではなく近衛文麿首相である。
 こういうと「いや、自存自衛のための戦争だから侵略では無い!」と言って近衛文麿を擁護する人が出てくるかもしれない。確かに近衛内閣は「帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」等と述べており、「自存自衛」のための戦争を位置づけていたが、どの戦争も自存自衛を目的として行われるものであり、しかもこの決定は既に支那事変が始まった後の「後出しじゃんけん」であるから、近衛文麿の責任は免責されない。
 しかも結果的にアメリカに負けて占領されたのであるから、「自存自衛を全う」出来なかったのである。つまり、近衛文麿の方針は間違っていたのである。
 ただ、大東亜戦争で唯一正しかったのは「植民地支配からの解放」の理念である。この観点で見ると、日本の降伏によってこの戦争が終了した訳では、無い。
 昭和20年(西暦1945年、皇暦2605年)には日本軍の手によってフランスからベトナム帝国とカンボジア王国、ラオス王国が独立した。この直前まではフランスインドシナ軍は日本と同盟を結んでいたが、彼らが連合国に降伏したため日本はこれら三国の独立を支援したのである。
 しかし直後に日本も連合国に降伏したから、これによって三国独立は水泡に帰すと思われたが、そうでは無かった。
 ベトナム帝国は連合国に降伏せず、代わりにベトミンに政権を委譲してベトナム民主共和国が成立した。それを認めないフランスとの間で第一次インドシナ戦争が勃発した。日本は連合国に降伏したためフランス側に協力したが、大東亜戦争の大義名分を心底信じていた兵士たちは義憤に駆られてベトナム側で参戦した。
 また、同年インドネシアの独立承認を日本政府は約束していたが、連合国に降伏したため日本側はそれを反故とした。しかし、インドネシア側は果敢にインドネシア共和国の独立を宣言し、日本軍の兵士の一部もオランダに降伏せよとの命令を無視してインドネシア独立戦争に参戦した。
 この第一次インドシナ戦争やインドネシア独立戦争を大東亜戦争と別個の戦争と捉えるべきではない。むしろ、大東亜戦争の目的の一つである「アジア解放」から日本政府は脱落したが、ベトナムやインドネシア、それに一部の勇敢な日本人はそれから脱落しなかったということであり、大東亜戦争の一部として捉えるべきである。
 なお、繰り返すが私は大東亜戦争自体を肯定している訳ではない。国際法上は侵略戦争であるし、また、政策論としても敗北した戦争を肯定は出来ない。特に、現地での中華民国との停戦協定を無視した近衛文麿の行為は、擁護の余地が皆無である。
 しかしながら、アジア解放の観点から見ると中華民国の蔣介石は「欧米列強側」に立っていたことも、紛れもない事実である。歴史には複数の側面があることを忘れてはならない。
 即ち、ベトナム帝国が独立しそれがベトナム民主共和国へと継承されていく過程において、中国はベトナム北部へと進駐しベトナム独立を認めなかったのである。無論、それは「ベトナム民主共和国は社会主義だから」というような高尚な理由ではなく(ベトナム帝国の独立も承認していない)、純粋に勝ち馬に乗っただけである。
 そしてフランスが中国内の租界を返還するという「餌」を提示すると、蔣介石はあっさりベトナムをフランスに明け渡した。中国がベトナムを国家承認するのは毛沢東が中華人民共和国を樹立して以降である。日本の自称保守には蔣介石を正義とし毛沢東を悪とする善悪二元論で語る者も多いが、この件以外にも蒋介石は台湾で虐殺を行っているし、単純な善悪二元論が通用する世界ではない。
 そもそも論として「大東亜戦争は自衛戦争だった!」と言いながら「蔣介石は悪くない!」という自称保守は、論理が破綻している。仮に日本が中国に対して自衛権を発動したというのであれば、それは蔣介石が侵略をしたということになるからである。
 左翼は日本を悪者にするために、自称保守は毛沢東を悪者にするために、それぞれ蔣介石を称賛しているが、中国国民党は今でも孫文の写真に向かってナチス同様のローマ式敬礼をするファシズム政党であり、蔣介石賛美論に私は与することは出来ない。
 無論、大東亜戦争の開戦責任は近衛文麿政権にあるし、中国共産党の支配に中国国民党よりも過酷な面があったのは事実である。しかしだからといって「蔣介石は悪くない」と言うのは善悪二元論に陥っている見方であって、自称保守も左翼も蔣介石を庇うことで共通しているのは、彼が欧米列強側に立っていたことと無関係ではないだろう。結局、自称保守も左翼もアメリカには逆らえないのである。
 ところで大東亜戦争の「終結」は第一次インドシナ戦争やインドネシア独立戦争の終結時点とは、必ずしも言い切れない。戦争は講和条約を結び、両国が正式に戦争状態の終結を宣言してから、法的には終了するのである。
 昭和27年(西暦1952年、皇暦2612年)に日本は『サンフランシスコ平和条約』に調印し、アメリカやイギリス等との間では戦争が終結されたが、肝心の中国はこの条約に署名も批准もしていなかったため、同条約25条等の規定によりこの条約の内容は中国には適用されなかった。
 ただ、同年日本は「中華民国」との間に『日華平和条約』を締結したが、実はこれは無効である。
 何故ならば、当時「中華民国」なる国は亡んでいたからである。日本が条約を締結した「台北政府」(自称「中華民国」)は、本来中国の一部ではない台湾を蔣介石が占領し、そこで台湾同胞の虐殺と「白色テロ」と呼ばれる大弾圧を行いつつ、樹立した政権である。『日華平和条約』締結時点で蔣介石は中国の支配権を喪失している。
 大東亜戦争が法的に終結したのは昭和47年(西暦1972年、皇暦2632年)の『日中共同声明』においてである。この『日中共同声明』を結んだことで田中角栄首相と大平正芳外相とを非難する自称保守もいるが、この2人は台湾が中国の一部であるという見解を最後まで承認せず、筋を貫いた。
 もっとも、日本が辛うじて筋を貫いたのはこの時までで、その後アメリカが日中国交正常化に怒りを表明し田中角栄が失脚すると、自民党は対米従属の度合いを深めて遂にはアメリカの侵略戦争に協力するにまで落ちぶれてしまった訳であるが。


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