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唯一神と八百万の神々の関係

 就寝前に、私が我が国の皇國體を学ぶ入門書としていた筧泰彦先生の『日本語と日本人の発想』を改めて読もうと思いページを捲ると、心に響くことばかりで、この感動を覚えたまま文章を書こうと思いました。
 色々な内容が興味深く、特に崇神天皇についての分析は歴史学が専門の私にとっても肯ける内容ですが、ここでは唯一神と八百万の神々との関係についての筧泰彦先生のご文章を紹介したいと思います。
 私は一神教に好意的で、キリスト教やイスラム教の方の信仰を好ましく思っています。しかしながら、近年の我が国では多神教優位論が席捲しており、一神教を否定する方が少なくありません。
 実は、私の所属する立憲民主党の枝野幸男前代表も著書で多神教優位論な内容を書いています。多神教優位論は戦前キリスト教や新興宗教を弾圧するロジックとして用いられたものですので、こういうことはもっと慎重に表現してほしかったですが。
 逆に、一部のキリスト教会は信者が神社に参拝することを禁止したり、禁止しないまでも否定的な見解を示したりしています。こちらは神道を多神教と見做した上で排斥しているもので、靖国神社や護国神社がクリスチャンを祀っていることに抗議して訴訟を起こす人もいるなど、神社神道側の信教の自由を認めない姿勢を鮮明にしている方がいます。
 私に対しても「唯一神を信じるのに神社を参拝するのは矛盾している」等と言われる方がいます。しかし、こうした問題への回答は筧泰彦先生がこう示されています。

 日本人が風土の上からいつて、身近な自然の事物に親愛や畏敬の情を頂くに至つたことは当然のことでありますが、西欧諸国の言葉に比べて見ますと、日本語には天体に関する語彙は少ないが、草木花虫など手近な自然に関しては比べものにならぬ程多いことがわかります。そこで、日本人は神をただ超越した一神のみを拝むのでなく身近な周囲の万我万物に於て、また万我万物を通して神を観、時と場合に応じて雑多な姿をもち種々の働きをなし給ふ八百万の神々を拝ろがみ、且つ祭つて来たのであります。即ち一神は万我万物として八百万に己を顕はにし給ふところに、人はこれを神と拝ろがみ、これをまつるのであり、その『拝ろがみ』や『祭り』とともに弥々神は神としての超越を確かにして在し給ひ、人も神の延長としてあると信じて来たのであります。これが日本人の神観の伝統であります。

筧泰彦『日本語と日本人の発想』日本教文社、136~137頁

 やや判りにくい文章ですが、これは要するに日本においては唯一神と八百万の神々とは表現の関係にあった、ということです。
 もっと嚙み砕いて言うと、「神」という絶対的・抽象的な概念は確かに日本にもありましたが、日本ではそのような絶対的・抽象的な存在を『旧約聖書』のヤハウェのような人格神であるとして祀るのではなく、もっと身近で具体的な存在を「神」を表現するものとして拝んできたのです。これが八百万の神々です。 
 表現するものと表現されるものとは一体ですから、唯一絶対の存在も八百万の神々もどちらも同じ「神様」であって、我が国では区別がありませんでした。
 これは筧泰彦先生ではなく佐藤弘夫先生の説になりますが、仏様についても我が国では「彼岸の仏」と「この世の仏」とが区別されており、「この世の仏」とは浄土の仏様ではなくお寺にある具体的な仏像を指していたようです。
 恐らく、お寺にある仏像は浄土の仏様と言う絶対的・抽象的な存在を――仏教に一神教の要素があることは私がかねがね言っていることですが――具体的に表現したものであり、そして、日本人は仏像を単なる道具とは見ずに、仏様を表現しているのであるからこちらも仏様である、という風に考えていたのでしょう。
 私は筧泰彦先生とその父親の筧克彦先生の表現関係論は、様々な思想や信仰を止揚させるものであると思っていますし、それは日本が本来無意識に抱いていた感性なのだと考えます。

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