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「推古朝遣唐使」記事盗用説が成り立たない理由(3)

(承前)
 本シリーズの冒頭で私は黒澤正延氏が『多元』に投稿したという論稿「推古朝における遣唐使(一)」を読んでいない、と述べました。
 しかし、黒澤氏の主張を全く知らずに彼の説を論じるのはフェアではないので、彼のブログに掲載されている「「推古朝における遣唐使」について」と題する6回シリーズの記事を見てみました。
 最初に少し不満を述べさせていただくと、黒澤氏のブログ記事では多くの古田学派の研究者の意見を紹介していますが、何故か私の論文だけは綺麗に「除外」されています。彼が私の論文も載っている『古代に真実を求めて』誌を読んでいることはブログ記事からも明白ですので、このようなことは理解に苦しみます。
 特に、正木裕氏と服部静尚氏の「十四年後差説」を批判し古田先生の「十二年後差説」の方が正しいとする谷本茂氏の論稿を紹介していますが、同様の趣旨の内容を私は谷本氏よりも先に発表しています。先行研究の軽視はどうかと思います。
 また、これは黒澤氏に限らないことですが、近年の古田学派の論者にはいわゆる「通説派」の論文を軽視している方が多すぎます。この後触れることになると思いますが、黒澤氏の主張は既に古代史の大家である佐伯有清先生が『史学雑誌』の「回顧と展望」欄で批判した内容そのものであり、佐伯氏の主張への反論無くして自説を述べているようでは、少なくとも歴史学界からは一切相手にされないでしょう。
(歴史学界にあまり関心のない方のために注記すると、『史学雑誌』は東京大学内に本部のある史学会が発行している学術誌で、歴史学界で最も権威のある雑誌になります。学問に権威主義は不要とは言え、古田学派は――というよりも、全ての研究者は――まさに東大レベルの研究者の主張の間違いを指摘することにその存在意義があるのですから――そうでないと学問の発展はあり得ません――、彼らの論文を読まずにスルーすること等、あってはならないことではないでしょうか?)
 本題に入ると、黒澤氏のブログでは谷川清隆氏の論文を含むこれまでの古田学派の研究者(もっとも谷川先生は反古田の安本美典先生とも親しいので古田学派とは言え無いですが)の主張について、次の疑問点を挙げています。

(1)「小野妹子」には「大礼」という「冠位」があり,その者を「近畿天皇家」の人物と見ることへの疑問である。
(2)使者は「小野妹子と鞍作福利」の二名と「書紀」が記述していることの意味についての検討が不十分ではないかという点である。
(3)「喪失したとする国書と奏上された国書」の問題は何ら解決されていない。創作との見解も正木氏によって述べられているが,果たしてそうか。
(4)「隋書では文林郎裴清と記されているが,書紀では鴻臚寺裴世清であり,又書紀では妹子が蘇因高と名付けられている」ことについての意味についても,十分な考察が為されているとは言い難い。

 私はこの内の(4)については、何故古田説等を批判する理由になっているのか理解できなかったので、ここでは(1)から(3)について説明します。
 この中で(3)については、『日本書紀』「推古紀」によると小野妹子は国書を紛失したはずなのに裴世清が推古天皇に国書を奏上しているのは矛盾である、というものです。
 その疑問自体は「なるほど」と私も思いましたが、その後の黒澤氏の結論については全く同意できません。
 黒澤氏はなんと「小野妹子の記事は2つの事件についての記録の合成である」という主張に至っています。
 そして、小野妹子はまず九州王朝(俀国)から隋に派遣にされ、隋の煬帝が俀国に国書を出さなかったので仕方なく俀国の天子である多利思北孤には「国書を紛失した」と報告した、とします。
 さらに、唐の時代になっても九州王朝(俀国)から小野妹子は唐に派遣され、それを受けて唐の太宗は裴世清に九州王朝宛てではなく大和政権宛ての国書を持たせて倭国へ派遣した、というのです。そして、その2つの記事を「合成」した結果『日本書紀』「推古紀」の記事には「矛盾」が生まれた、と言います。
 想像力の逞しい仮説ではあります。が、この説だと『日本書紀』は意図的に「矛盾する内容の造作」を行った、という事になって仕舞います。
 事実、黒澤氏はブログで次のように述べています。

 まづ第一に,書紀の読者(中国の読者ではなく,日本に住む日本の歴史を知る読者)に,この矛盾に不思議さを感じさせ,一坦立ち止まってもらうことを意図した。
 第二にこの矛盾した記事に熟考してもらうことを願った。(略)
 即ち,記述そのままを読んでは,真実に辿りつかないことを,書紀の編者は十分に予定していたのである。何故なら,正しく日本列島を代表する「九州王朝」の存在を「一切カット」しなければならなかったからである。
 「近畿天皇家」一元史観では,その矛盾した記事を解読することは不可能としているのである。換言すれば,こうした矛盾した記事を,「隋書」を頼りに正しく読み替えれば,どうしても「九州王朝」に辿りつかざるを得ないのである。
 ここにこそ,「書紀編者の本意」がある。表向き「九州王朝」の存在を一切カットしながら,本意は,国内の読者に「九州王朝」の存在を知らしめようとしていたのである。「近畿天皇家」一元史観では,全く読み解けないような,それでいて表面上は「九州王朝」を表記しない,という方針の下で編纂されたのである。ただ,国内の識者には,それとなく知らしめるべく,矛盾に満ちた書き方が基本的に要請されていたのである。
 表面的には現れていない「九州王朝」な,見事に紙背に記されていたのである。「日本書紀」は,決して「九州王朝」の存在を無視しようとは考えず,如何にしたら「唐」に気付かれず,国内読者に知らしめることができるかに腐心していたのである。

黒澤正延「「推古朝における遣唐使」について(五)」2022年ブログ記事

 失礼を承知で言いますが、私がこれを読んで連想したのは、ヒカルランド社の歴史本によく記されているような「歴史書暗号説」とも言うべき仮説です。
 「『日本書紀』の編者はわざと矛盾する文章を書いたんだ!それは九州王朝の存在を知ってもらうためだ!」と言ったところで、歴史学界において相手にされるはずが無いでしょう。また、意図的に矛盾する記述を正史に書いたりしたら、首が飛んでもおかしくはありません。
 この時点で私は黒澤氏の仮説には全く同意できないのですが、一応、黒澤氏が触れた(1)と(2)の論点についても述べさせていただきます。
 (1)は要するに小野妹子が与えられた冠位は俀国の冠位ではないのか、という主張です。
 (2)については直接に古田説や谷川説、正木説、或いは、私の説を否定する内容では無いと思いますが、私は文字通り大和政権が派遣した使者の中で重要なのが小野妹子と鞍作福利だったというだけのことだと思います。
 そこで争点は(1)の小野妹子の冠位について、ということになるのですが、その前に黒澤氏が谷川論文の内容で触れていない点について述べる必要があるでしょう。(続く)

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