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「推古朝遣唐使」記事盗用説が成り立たない理由(4)

(承前)
 『日本書紀』「推古紀」によると、推古16年に裴世清が唐に帰る際、小野妹子や高向玄理、南淵請安も一緒に唐に渡った、と言います。
 さて黒澤正延氏はこの記事について、通説通り年代は608年であり「唐」は「隋」のことで、そして『隋書』「俀国伝」における裴清の帰国記事と一致する、とします。
 その上で、この記事を九州王朝の記録からの盗用としているのです。
 しかしながら、黒澤氏は谷川論文を読んでおきながら谷川清隆氏による重大な指摘を無視しています。それは、高向玄理も南淵請安も明らかに大和政権側の人物である、という事実です。
 黒澤氏のブログではこの谷川論文の内容に正面から答えていないどころか、高向玄理や南淵請安に関する記述すらありません。
 黒澤氏は小野妹子が俀国(九州王朝)の冠位を持っていることを理由に九州王朝側の人間であって大和政権側の人間ではない、としましたが、これは谷川論文でも触れている通り大和政権も俀国も同じ倭国の一部なのですから、小野妹子が俀国の冠位を持っていても何ら不思議ではありません。
 そもそも、この冠位は後の位階に相当するものですが、後世の大和朝廷は外国人にも位階を授けています。位階は外国人には授与しない、と決まったのは明治以降の常識です。
 古くは『魏志』「倭人伝」に登場する難升米や都市牛利も魏の官職を貰っていました。官職や位階、冠位は国籍とはあまり相関性が無いのです。
 その上で、明らかに大和政権側の人間である高向玄理や南淵請安と一緒に行動しているのですから、小野妹子が大和政権側の人間であることを否定するのは、あまりにも根拠の乏しい仮説であると考えます。
 私が推古朝遣唐使の記事を大和政権の記録に基づくものとしたのも、これらの記事が大和政権の歴史と一体化しており、高向玄理ら登場人物が大和政権の人間であるのみならず、難波の外交施設も登場する等あまりにも具体的で、これらを全て造作とすることはあまりにも不自然であって、『日本書紀』の編者にメリットがないと言えるからです。
 また、これは『日本書紀』自身の分析によるものではありませんが、小野氏は大津市の小野神社を氏神としています。小野神社の創建伝承は小野妹子がこの神社を建立したというもので、この伝承自体はどこまで事実かは判らないものの、この神社が古くからあること自体は『続日本後紀』の記述からも明白です。小野氏にとって仮に近江に縁もゆかりもないのであれば、そこに氏神神社を建立する動機はありませんから、小野氏が近畿地方の氏族であることは明白です。
 加えて、私は基本的に『日本書紀』が他の史料から「盗用」をする際には、“必ず”年代の改変を伴っていることも指摘したいです。例えば「神功紀」には明らかに神話時代と判る人物が登場する(つまり、神功皇后の時代ではない)記事が存在していますし、持統天皇の吉野行きの記事もその年代を信じると「何故、桜の時期でもないのに吉野へ?」となりますが、これらの記事が九州王朝の記録から年代をズラした上で嵌めこまれたものだとすると解釈はしやすいです(この問題の詳細は別に論じます)。
 一方、年代について特に怪しむに足りない記事は、全て大和政権側の記録と解釈することが可能です。
 こう言うと次のような反論があるかも、知れません。
「推古朝遣唐使の記事は年代が異なるのだと日野自身が論証してあるのだから、それを九州王朝からの盗用と解釈することは問題ないではないか!」
 これについての私の反論は明確です。
「推古朝遣唐使の記事の年代は『日本書紀』の編者が意図的にずらしたのではなく、原史料自体に年代のズレがあったのだ。」
 このことは、通説派からの批判に応えるためにも古田学派の人間が考えなければならないポイントです。
 と言うのも、古田武彦先生が十二年後差説を提唱した時に、通説派の学者との議論で指摘されたのがこの点であるからです。(続く)

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