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池家の初代は池禅尼と解釈するのが妥当

 私がツイッターで「池家の初代は池禅尼」と書くと、「戸籍婚における選択的夫婦別氏」推進派のアカウントが

「貴方は該当する歴史についての知識が浅い!」
「wikiで確認したら池氏の家祖は平頼盛です!」

と絡んできました。(笑)

  私をバカにできるぐらい賢い方が「wikiで確認したら~」とは、一体、何のジョークなんでしょうね。

 歴史学についてはWikipediaの記述はほとんどあてになりません。

 それはWikipediaの編集者自身の無知や思い込みが是正されていないのもありますし、さらに

①古代の家制度は家父長制であったとする伝統的歴史観

②古代の日本は母系社会であったとするフェミニズム史観

の、双方から歴史改竄が行われている結果、Wikipediaが出典に用いている一般書はおろか、学術論文のレベルでもバイアスがかかっているのが現状です。

 ①については、戦前までの男尊女卑な風潮による思い込みの他、戦後はマルクス史観の影響で「家制度=女性差別」というレッテルが貼られたこともあり、保守から左翼まで根強く残っている偏見です。

 また、②についても「通い婚は母系社会の証拠!」「夜這いは母系社会の名残!」と言うレベルでの曲解に基づいた推論が多すぎます。

 ここで皆様の幻想を壊すために言っておくと「通い婚」なんか存在しませんからね。

 古代から夫と妻は夫婦同居です。

 いわゆる「通い婚」とは浮気性な男が妾の家に通うことを指しています。それを「母系社会の証拠!」と言い張るのは、まぁ、物凄い曲解力ですなぁ。

 夜這いも、村社会の同調圧力を利用した半強制的な性行為であって、むしろ女性の地位が低かった証左です。

  前置きはこのぐらいにして、池家の話をしますね。

 Wikipediaには池家の初代当主は「平頼盛」となっていますが、これは、まぁ、一次史料があるわけではありませんね。そんなもの、あるわけがない。

 ここで「家名」(名字)とは何か、ということをまず説明します。

 古代から近世に至るまで、朝廷では「実名」「通称」という二種類の名前を用いていました。

 まずは「実名」ですが、これは

「本姓+諱(本名)

という形式でした。例えば

「平朝臣(=本姓)頼盛(=諱)

という感じです。この場合「本姓」は「所属する氏族」を示し、「諱」は「個人の本名」を示します。

 が、この「実名」があまり使われなくなる事情が生じます。

 元々、実名は戸籍に記された名前でしたが、実は平頼盛の時代には戸籍編纂が中断してから二百年以上経過していました。

 つまり、どの名前が本名なのか、戸籍を見ても確認できないわけです。また、誰がどの氏族に属しているかも、公的な資料では確認できず、すべて自称と言うことになります。

 ちなみに、戸籍編纂は明治維新まで行われることはありませんでした。

 なので、有名な笑い話ですが、明治維新直後に明治天皇が西郷隆永に褒美の位階を授けようとしたとき、西郷本人は都にいなかったので彼の友人に「実名」を聞いたところ

「藤原朝臣隆盛」

と記した、と言う話があります。

 西郷が本当に「藤原朝臣」かは誰も確認できませんし、実は彼の本名は「隆盛」ではなく「隆永」で「隆盛」は父親の名前だったのですが、戸籍が編纂されていない当時、実名を確認する術はなく、朝廷は間違った名前で位階を与えてしまいました。

 こういうと「あれ?実名を普段は使っていなかったの?」と言う人がいるかもしれませんね。

 実は江戸時代、住民票の役割を果たしていた「宗門人別帳」にも「本名」ではなく「通称」が記されていました。

 この「通称」も起源は平安時代に遡ります。当時の朝廷では

「称号+官名」

を「通称」として用いていました。平頼盛の場合は

「池(=称号)大納言(=官名)

が「通称」です。

 ちなみに、実名が

「藤原朝臣道長」

として有名な方の通称は

「御堂関白」

です。もっとも藤原道長は「関白」ではなく「内覧」なんですけどね。

 「御堂関白」の例でも分かるように「通称」には「官名」ではなく「官名もどき」が使われる例もありました。例えば

「平朝臣清盛」

の通称は

「入道相国」

ですが、「入道」は出家したことを示す称号です。

 問題は「相国」で、これは「太政大臣」の唐名(中国風の呼び方)ですが、平清盛は出家した時には太政大臣をすでに辞任しているので、これは官職と通称が一致していない例です。

 まぁ、いくらなんでも官職を辞任したからと言って

「入道無官」

と呼ぶわけにはいかなかったのでしょう。(笑)

 そして、この「称号」を世襲したのが「名字」の起源です。

 但し、この「称号」は「本姓」とは異なり必ずしも血統によって決まるものではないのです。

 例えば江戸時代、多くの大名が「松平」を称号としてなのりました。

 一例をあげると、伊達政宗の実名は

「藤原朝臣政宗」

ですが、通称は

「松平陸奥守」

でした。無論、徳川家康と伊達政宗の間に血縁関係などありません。

 話を戻すと「称号」の世襲が「名字」の起源なのですが、ここで問題があります。

 平頼盛の子孫は「池○○」を「称号」として世襲しました。つまり「池」を名字(家名)とする「池家」が成立していたということになります。

 が、「池家」の初代は「池」の称号を最初に名乗った人間のはずです。

 それは誰か。実は、平頼盛の母親である実名が

「藤原朝臣宗子」

と言う方の通称は

「池禅尼」

といいます。『平家物語』等でご存知の方も多いのではないでしょうか?

 「禅尼」は「出家した女性」に与えられる一種の社会的身分ですので、「官名もどき」の一種です。

 すると、池禅尼は「池」を「称号」として用いていたと言うことになりますね。

 平頼盛が始祖と言うのはあくまでも後世の評価。

 平頼盛の通称である「池大納言」は母親の「池禅尼」から「称号」を引き継いだものであることは、疑いようがないわけです。

 これから派生する問題として、池禅尼と平清盛は「家名」を共有していない以上、別の家の人間だったと言うことになりますね。

 これについても、エビデンスとしては池禅尼の子供の昇進は平清盛一家と比べて遅いというものがあります。

 平清盛の子供の平重盛の方が、平頼盛よりも早く公卿になっています。家格を重んじる朝廷においては、同じ家であると当主の息子よりも当主の弟が年功序列の関係で早く出世しますから、これは平頼盛が平清盛とは別の家と認識されていた証左です。

 平清盛と平頼盛の父親は同じ平忠盛ですから、母親が別の家だったと解釈するほかないわけです。

 藤原摂関家の家名についてもこれに似たケースがあるようですが、これについては私はまだ詳細を調べていないので、後日機会があればnote等に書いてみようと思います。

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