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武家政権の朝廷・公家に対する態度

 日本では、鎌倉幕府が出来て以降も朝廷は存続し、貴族たちは荘園を所有したままで、官位も維持していました。
 つまり武家政権の頃の貴族(公家)たちは、貴族たちが国家を私物化した「王朝国家」の頃と、実態はともかく建前としては変化が無かったわけです。
 これが中国だと唐が滅亡した後に貴族階級の大粛清が起きるなどしており、またフランスでも貴族の生き残りは今でもいますが、少なくとも「建前上は」何も特権を持っていません。
 これは当たり前の話です。「実権の無い建前」など、政治的には無意味。そんなものが何百年も続くことは、通常はありません。
 ところが、日本では逆で、貴族階級が実権を失った後も建前上の権力を握り続けました。ここに貴族階級のしぶとさがあり、恐らくはその背景に貴族特有の謀略もあったのでしょう。
 さて、武家政権の前提となる王朝国家の成立過程は「律令国家の崩壊」シリーズで過去に説明しました。今回は逆に王朝国家の崩壊後、武家政権と貴族たちの関係について簡単に説明させていただきます。

平家政権「藤原摂関家や院政から実権を奪えばよかろう!」

 最初に武士で政権を握ったのが平清盛。彼はこう考えました。
「そもそも、なんで藤原摂関家が天皇陛下を差し置いて政権を握っているんや?彼らの勢力基盤を奪えば平家も政権を握れるんじゃないか?」
 藤原摂関家とは、摂政・関白を世襲している家系です。その頃は天皇との血縁に関係なく藤原道長の子孫が摂政や関白に任命されていましたが、そもそもの彼らの権力の源泉は皇室との血縁関係です。
 また、実は摂政や関白が直接政治をすることは無く、実際に政治をしているのは大臣や参議と言った「公卿」(上級貴族)と呼ばれる人たちです。
 平清盛はまず、自分も公卿になりその中でも最高位の太政大臣にまで上り詰めました。そして、藤原摂関家同様、皇室との血縁関係も深めていきます。
 ただ、平清盛自身は太政大臣をすぐに辞めてしまいます。
 そして、彼が狙ったのは藤原摂関家の経済基盤である荘園です。
 荘園は藤原摂関家の経済基盤であるのみならず、朝廷の法律が適用されないなどの「聖域」と化していました。そこにメスを入れたのが平家です。
「相続の怪しい荘園は没収する!そうでない荘園の荘官(荘園の管理人)にも平家の子分を任命する!」
 平清盛は荘官として平家の子分である「地頭」を任命しました。
「え?地頭を設置したのは鎌倉幕府じゃなかったの?」
と言う方、それは違います。確かに全国レベルで地頭を置いたのは鎌倉幕府ですが、この制度を最初に考案したのは、平清盛です。
 地頭は平家の子分ですが、仕事は藤原摂関家の荘園の管理です。これまで荘園は藤原摂関家が好き勝手に管理していましたが、管理の実務を平家の子分がすることにより、藤原摂関家は好き勝手出来なくなってしまいました。
 そこで藤原摂関家を始めとする貴族たちは当時の後白河法皇に泣きつきます。
「法皇陛下!平清盛を何とかしてくださいまし!」
「よし!平家を排除することを今から計画しよう!」
 これが鹿ケ谷の陰謀。ところが、この陰謀は平清盛に漏れてしまいました。
 平清盛は逆に後白河法皇を監禁し(治承三年の政変)、その息子である高倉天皇が安徳天皇に譲位して治天の君(皇室の家長)として実権を握ります。
 ところが、実権を握ったはずの高倉上皇は、二十歳にもなる前に崩御してしまい、残されたのはまだ幼い安徳天皇。
 平清盛の死後、後白河法皇に対抗できる有力者は朝廷におらず、平家一門は後白河法皇の命令を受けた源氏により、安徳天皇と共に壇ノ浦の戦いで亡ぼされます。なお、現役の天皇陛下を殺したのは蘇我氏と源氏ぐらいで、前者が悪役、後者が善役と言う扱いを受けているのは「歴史は強者が作る」と言う典型でしょう。

鎌倉幕府「藤原摂関家の支配体制を乗っ取ればええんや!」

 藤原摂関家と正面から対立した平家を反面教師にしたのが、源頼朝ら鎌倉幕府の面々です。
 源頼朝は全国に守護と地頭を設置しました。守護は地方の治安維持の仕事をする人で、武士にピッタリの仕事です。もしも内乱が起きると源頼朝の部下である守護がそれを鴆地ある訳です。
 そして、地頭は平家政権も任命していたもので、これで藤原摂関家の荘園を乗っ取れます。
 ですが、鎌倉幕府は藤原摂関家との正面衝突は避けました。後白河法皇は源頼朝を権大納言・右近大将に任命します。どちらも大臣になる一歩手前の役職で、今の副大臣です。
「陛下、私をこのような立派な役職に任命してくださりありがとうございます!」
と、最初は官位を受け取った頼朝ですが、一カ月もしないうちに
「それでは私は官位を辞職させていただきます。」
と言ってそそくさと鎌倉に帰ってしまいます。これが逆に貴族からは
「ほう、源頼朝殿は分をわきまえておるのう。大臣にならないとは良い心がけじゃ。貴族でもないのに大臣になるのは良くならないからのう。」
と、高評価。さらに源頼朝の直系子孫が途絶えた後、鎌倉幕府は藤原摂関家の人間を征夷大将軍に迎えるなど、一貫して「親藤原摂関家」の姿勢を維持します。

室町幕府「公家たちに恩を着せておけば大丈夫や!」

 鎌倉時代後期から皇室も貴族も武士も、一族内での内紛が激増します。室町時代初期は「南北朝時代」と呼ばれる、朝廷そのものが二つに分裂する有様です。
 室町幕府は守護と地頭の制度自体は鎌倉幕府のものを踏襲しましたが、内紛が大きくなると軍事力を握っている守護が強くなり、彼らは一国を支配する「守護大名」と呼ばれるようになります。
 ならば地頭はどうか?と言うと、彼らは守護大名の子分である「国人」へとなっていきました。荘園の管理人である地頭が守護大名の子分になったわけですから、荘園自体も実質的に守護大名の支配下に入ったわけです。
 しかし、荘園の名義上の持ち主は相変わらず貴族です。なので貴族もある程度の収入はあったのですが、戦乱続きですから荘園収入の全ては入ってきません。
 しかも貴族の家の中で内紛が起きると武士が介入したりしている訳ですから、貴族も武士を無下には出来ないのです。
 そんな中、室町幕府の将軍たちは公家たちに恩を着せて、その代わりに地位を向上させていきます。
「宮中行事の費用が足りぬ!」
「それならば私が代わりに費用を出しましょう。しかしながら、その代わりに私を源氏長者にしてくれませんか?」(※氏長者=源氏や藤原氏と言った氏族の代表者)
「なんだと?氏長者は代々公家が就任すると決まっておってだな・・・。」
「ああ、そうですか。それならばその、公家の長者さんにお金を出してもらってください。長者でもない私がお金を出すのは変な話ですよね?」
「あわわ、判った!お前を源氏長者にする!だから宮中行事の費用を出してくれ!」
「よし来た!これで私が源氏の頂点、源氏の公家も私に頭を下げろよ!」
と言う感じで、室町幕府の将軍は様々な権威を手に入れ、一部の公家を支配下に置くなどします。
 ちなみに、理屈を言うと宮中行事の費用を抑えながら開催すると、当時の公家の経済力でも十分可能だったのですが、なにしろ公家(の、上層部の腐敗貴族)たちは自分たちが国家を私物化していた時代の儀式を再現しようとしていたので、質素倹約と言う発想がありません。
 そのため、どうしても室町幕府に頼らざるを得なくなりました。

豊臣政権「腐敗貴族からは荘園も官位も没収じゃ!」

 鎌倉幕府・室町幕府が公家勢力、特に藤原摂関家に正面からは対立しなかったのに対して、正面から対立したサルがいました。豊臣秀吉です。
 豊臣秀吉こそ、何百年も続いた藤原摂関家の支配に終止符を打った・・・はずの男でした。
「腐敗貴族など政治には要らぬ!貴族の荘園をすべて没収せよ!貴族の大臣も要らん!」
 豊臣秀吉は藤原摂関家以外で初めて関白となり、さらに朝廷の大臣からも公家を追い出し、太閤検地で荘園もすべて没収しました。
「土地は今現に耕作して年貢を納めておる百姓のものじゃ!何もしていない貴族に所有権を認めるなど、オカシイ!私は天皇陛下の信任を受けて関白になっているのだ!」
 正論ではありますが、この政策で貴族たちは官職も資産も失った「失業者」となってしまいます。このことが豊臣政権崩壊の理由となることを、秀吉が存命中に知ることは、ありませんでした。
 豊臣秀吉の死後、朝廷は大混乱に陥ります。
「太閤様が亡くなられた今、誰が天下を治めるのだ!関白はいないぞ?」
「豊臣秀頼さまが関白になられる予定では無かったのですか?」
「バカ者!彼はまだ子供ではないか!関白など務まるはずがない!」
「大臣は誰だ!貴族の大臣はいないのか?」
「いません!唯一の大臣は、徳川内府(内大臣)様です!」
「ならば天下人は徳川公じゃ!それ以外に大臣がいないならば仕方ない!」
と言う訳で、実は関ヶ原の戦いの以前から、朝廷は徳川家康を天下人に決めてしまっていたのです。
 さらに徳川家康は貴族に対して「謙虚」な姿勢を見せました。
「私が朝廷で頂点に立つとは、畏れ多いことです。九条太閤様(九条兼孝、秀吉の前の関白)、どうか関白に戻って下さらないでしょうか?」
「おお、内大臣殿がそこまで言われるからには、私も年じゃが関白に戻ってやらんこともないのう。一緒に良い政治をしようぞ。」
と言う感じで、豊臣秀吉によって粛清された貴族たちをどんどん復権させたのです。
 実はそれこそが徳川家康の狙いでした。

江戸幕府「担ぐ神輿は腐敗貴族がちょうどいい!」

「秀吉殿もバカなことをしたものだ。腐敗貴族ほど御しやすい者はおらんと言うのに。」
 徳川家康は征夷大将軍となった後も公家、その中でも特に上流階級の藤原摂関家を重視しました。
 彼の狙いは、将軍職を息子の徳川秀忠に譲った後、明らかとなります。
「二条関白様(二条昭実)、『禁中並びに公家諸法度』という法律を制定してはどうでしょうか?」
「おお、徳川殿、これは素晴らしい法案ですなぁ。」
「関白様に認められるとは嬉しい限りです。」
「なんのなんの、これで天下は我々のものですぞ?天皇陛下を無視して国家を支配するため、仲良くしましょうや。」
 実は『禁中並びに公家諸法度』と言うのは、幕府が朝廷を支配するための法律ではあるのですが、藤原摂関家にはかなり「旨味」があったのです。
 まず、第一条で天皇陛下の仕事は「学問」であると定め、政治の実権を奪いましたが、これは藤原摂関家がこれまでやっていたことの確認です。
 そして、第二条では「三公(大臣)の下は親王。」と明記されます。さらにその理由として「右大臣不比等は舎人親王の上に着く」としてまさに藤原氏が皇族以上の権勢を誇ったことが先例であることを示し、「一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし」と明記して「藤原氏の上級貴族が親王よりも上」であることを示しました。
 豊臣秀吉が天皇陛下の信任を受けて腐敗貴族を一掃したのは対照的に、再び藤原摂関家が皇族以上の権勢を誇れるようになったのです。
 また、第十条では「諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし」と明記し、世襲による官職の継承を明確にしました。これにより貴族でもないサルが関白は勿論、朝廷の如何なる役職に就くことも出来なくなり、朝廷は永遠に貴族の支配するところとなります。腐敗貴族からすると天国です。
 そしてこの後、江戸時代約三百年のもの間、藤原摂関家は積極的に江戸幕府を擁護し、むしろ勤皇派の公家たちを弾圧する側に回りました。
 明治維新の時に活躍した公家の多くも下級貴族であって、上級貴族ではありません。江戸幕府が続いた秘訣は、藤原摂関家との癒着に有ったのです。

ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。 拙い記事ではありますが、宜しければサポートをよろしくお願いします。 いただいたサポートは「日本SRGM連盟」「日本アニマルライツ連盟」の運営や「生命尊重の社会実現」のための活動費とさせていただきます。