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「推古朝遣唐使」記事盗用説が成り立たない理由(2)

(承前)
 谷川先生の論文は、これまで谷川先生が発表してきた一連の「天群・地群」説の論文の一つです。
 そこで『日本書紀』「推古紀」の遣唐使記事(なお、谷川先生は通説通り遣隋使であると考えておられるようですが)を分析する前に、谷川先生の「天群・地群」説について触れさせていただきます。
 元々、森博達氏が『日本書紀』の各巻について、純粋な漢文で記されている「α群」と和風漢文となっている「β群」とに分けたことが、谷川説のキッカケです。
 谷川先生が森説における「α群」と「β群」に掲載された西暦7世紀における天文記事を検証すると、「α群」の記事は実際の天文観測の結果と一致しないのに対して、「β群」の記事は実際に観測された記事であることが判りました。
 しかし「α群」の記事を書いた人に天文関係の記事を造作する動機はありませんから、これは「α群」の記事を書いた人たちには天文観測の知識が無く、そして「β群」の記事を書いた人たちには天文観測の経験があったか、或いは天文観測の記録を持っていた、ということを示します。
 そこで谷川先生は『日本書紀』の「α群」の巻を書いた人たちを「地群の人々」とし、また「β群」の巻を書いた人たちを「天群の人々」である、としました。
 これは「天群の人々」と「地群の人々」という2つの人々を生みだした母体が当時の倭国にあったことを示し、谷川先生はその他の記述も含めて分析した結果、「天群の人々」が所謂九州王朝の関係者で、「地群の人々」が所謂大和朝廷の人たちである可能性が高い、としておられます(もっとも、厳密には今回紹介する谷川論文では九州王朝説を直接的に支持している訳ではありません)。
 また、森説で「α群」に分類された巻にも和風漢文(谷川論文では「倭習」)が例外的に見られることから、それは「α群」の巻に「天群の人々」の文章が紛れ込んだ例である、としています。この説を発展させると「β群」の巻に「地群の人々」の文章が紛れ込んだケースも考えられるわけです。
 そして、谷川先生の論文「『日本書紀』推古・舒明紀の遣隋使・遣唐使」では、「推古紀」における遣唐使記事が「天群の人々」ではなく「地群の人々」によるものであることが論証されているのです。
 この中で、私が重要と思った論点を書きます。

(1)「推古紀」は「天群」(森説では「β群」)の巻に属するが、遣唐使として派遣されたと「推古紀」に記載のある高向玄理や南淵請安、惠隱等は「地群」(森説では「α群」)の巻である「孝徳紀」等で活躍している(高向玄理に関する記事を書いた人が「地群の人々」であったことを示唆する)。
(2)「推古紀」では朝鮮半島に軍隊を送った記述があるが(「天群の人々」が数多くの軍船を持っていたことを示す)、一方で「推古紀」の遣唐使記事では「新羅の船」や「裴世清の船」に乗ったことを示す記述はあるのに対して「自前の船」で渡航した記述はない。
(3)『日本書紀』「推古紀」の遣使記事は『隋書』にも『旧唐書』にも『新唐書』にも記載がない。

 このうち、(3)についてはこれまで通説派の人たちから色々と「説明」が試みられた点ではありません。
 ただ、私が通説派よりもむしろ、九州王朝説を支持する人たちに注目してもらいたい、と思うのが(1)の点です。
 小野妹子同様、「推古紀」で遣唐使として派遣されている高向玄理は、古代史に少しでも関心のある方ならばご存知の通り、大和政権において多大な活躍をした人であり、そのことは『日本書紀』にも記載があります。
 仮に『日本書紀』の高向玄理に関する記事が全て「造作」である、或いは、九州王朝の記録からの「盗用」である、というのであれば、それは大変骨の折れる作業であり、仮に何の根拠もなくそのような主張をすれば単なる「トンデモ説」としてあしらわれるのがオチでしょう。
 南淵請安に至っては中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足の師に当たる超重要人物です。まさか南淵請安についても「『日本書紀』の造作だ」とか「実は大和政権の人物ではなかった」等というのでしょうか?
 そのような「仮説」を立てるのは自由ですが、あらゆる仮説には「検証可能性」が求められます。単に「造作だ!」というだけでは検証が不可能ですので、少なくとも学問上の仮説としては不成立であると言わざるを得ません。(続く)

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