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その時 その場 精いっぱい

昔はマルチタスキングな人がかっこいいと思っていた。

そして自分も頑張ってそうなろうと努力し、20代の頃はすっかり自分のことをマルチタスキングだと思い込んでいた。

でも今思えばそれは違った。

私はマルチタスキングだったのではなくて、単に飽きっぽかったのだ。

飽きっぽいからひとつのことに集中できず、それを自分の中でうまく納得するための視点がマルチタスキングだったのだ。

その飽きっぽさは今も健在で、同じことを同じやり方でじっくり10年続けるとか、本当に無理だと思う。そしてそれができる人を、とても尊敬する。

でもそれのいいところもあって、常に新しいことを思いついたり、やり方を改善することに躊躇する気持ちが全くない、というのは飽きっぽいからこその利点かもしれない。

そして、飽きっぽい、飽きっぽくないにかかわらず、マルチタスキングはよくないよなあ、というのが最近の私のスタンスだ。いや、正確にいうと、マルチタスキングが悪いわけではない。ただマルチタスキングを目指そうとすると、今やっていること以外の作業や予定などが常に頭のどこかにスタンバイしている状態で、今目の前にあることに100%の集中力を発揮できない気がするのだ。

いや、発揮できるよ、という人は、マルチタスキング向きなんだろう。

私はそれが全くできない。

そんなことを考えていたら、ふと小学校5・6年生のときのクラスの標語を思い出した。

「その時、その場、精いっぱい」

私は5年生の2学期にこのクラスにやってきた転校生で、だからその仲間たちと過ごした時間はたった1年半だった。だからその標語が今になってどこからか出てきたことに正直驚いた。

担任の先生は20代後半、カラーグラスをかけて、大きくて迫力があり、小学校の先生の風貌では全然なかった。公立小学校だったのに、たまたまその先生が子供の頃通った小学校でもあって、なんだかすごくそこで教えることに思い入れがあったんだと思う。先生の家も学区内にあったから、クラスのみんなで遊びに行ったこともあった。少ししか過ごさなかった割に、そこでの思い出は意外とたくさんある。

お祭りのクラスごとの出し物で割り箸鉄砲をたくさん作って、「シューティング・ギャラリー」なんてのもやった。私が小学生の頃なんて英語の授業などないからシューティング・ギャラリーの言葉の意味さえよくわからなかったけれど、とにかくそのカタカナの響きの出し物をやる、っていうだけでワクワクしたのを覚えている。

それからものすごく合唱に力を入れていて、本当に難しい歌をかなり上手に歌っていたなあ、とか、いろんな思い出が津波のように押し寄せてきた。

さて、そのクラスの標語の話に戻るけれど、その時、その場、精いっぱい、というのは、もうまさに私がコーチングでもよくいう「今にフォーカスしよう」とか「今を生きよう」ということだな、と思う。

今にフォーカス、なんていうと、どうやって?とはてなマークが頭にたくさん浮かんでしまう人もいるかもしれないが「その時、その場、精いっぱい」だったらなんかしっくりくるのではないだろうか?

つまり、今目の前にある、その時と、その場に、一生懸命になればいい、ということ。

小学生の私にとっては、40歳をすぎたライフコーチの私がそれを思い出すなんて想定外だけれど、案外そういう小さい頃に聞いたシンプルな表現にこそ、真実があったのかなあ、なんて思いを巡らせている。



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