爬虫類狂騒曲



無類の爬虫類マニアのダンナだった。
ガンがわかった時も、真っ先に心配したのは生き物たちのことだった。私や子どもたちのことじゃないんかい! とツッコミたかった。


「この仔たちをみんな飼って欲しい」


ダンナの遺言だ。


(トカゲ三匹、イグアナ一匹、カメ十数匹…。いや無理だって!)


トカゲの中には2m近くに成長するシロモノもいる。カメだって、これめっちゃデカくなるやつだ。けれど無理だとは言えなかった。膵臓ガンはすでに肝臓に飛んでいて、末期だった。
おまけにヒョウモントカゲモドキという派手なヤモリみたいなやつも二十匹ほどいた。


「レオパ(ヒョウモントカゲモドキ)は生き物が本当に好きな人に、直接会って話をしてからなら譲るけど、トカゲとイグアナとカメは全部飼って欲しい」


そう言ったまま、ダンナは帰ってこなかった。


思えばいろいろな生き物を飼ってきた。カメ、トカゲ、イグアナ、アロワナ、ポリプテルス、タイハクオウム…。私もダンナに感化され、セキセイインコやブンチョウやビーシュリンプを飼ったりした。ダンナは大型の爬虫類や魚類、鳥類がめっぽう好きだった。
結婚前、ダンナの実家ではフクロモモンガが部屋の中を座布団のように滑空したり、抜け出したオオトカゲが玄関に鎮座していて、訪れた人が腰を抜かしそうになったこともあったそうだ。小学生の頃、ランドセルの中身を河原の土手にほっぽり出し、捕まえた無数のトカゲを詰め込んで持ち帰ってきたという武勇伝もあるので、おそらく筋とか金とかが入っていたのだろう。付き合っていた頃、メールで爬虫類の美しさを滔々と語り送りつけてきたこともある。


「ヘビやトカゲの皮膚の模様がどんなに美しいか、知って欲しいんだよ」


結婚してしばらくは、ダンナにも遠慮というものがあった。それがある頃を境に、遠慮は解除されていった。


(うちってカメが三匹いるんだ)


そう気付いたのは、結婚して9年目の2013年7月のことだった。アロワナやポリプテルスといった大型魚をすでに飼っていた。娘は6歳、息子は4歳になっていた。そういえば『世界のカメ』という本が部屋のあちこちに転がっているな、とは思っていた。きっと息子を味方につけようとしていたのだろう。いまいち乗り気ではない息子に世話を手伝わせていた。
そこからカメがどんどん増えていったような気がする。家事育児仕事を理由に、私は見ないふりを決め込んでいた。するとあっという間にマンションの一室は生き物たちの部屋に変貌していった。気づけば見覚えのないトカゲも仲間入りしていて、さらにそれが成長してケージが狭くなったとかで、大型水槽の上に大型ケージが設置された。いきもの王国の爆誕である。もう考えるのをやめよう。私は私の趣味に生きることにした。


話を戻す。
ダンナはガンがわかってしばらくしてからこう言った。


「今度ブラックアウトに一緒に行こうよ。あまり大きくならないトカゲをもう一匹飼おう」


あまり大きくならない —— どうやら私へのプレゼントのつもりらしい。


(いや、もういらんから!)


けれど見るだけなら…。最後のブラックアウトになるだろうな。私は一緒に行く約束をした。ブラックアウトというのは毎年やっている珍獣フェアのことである。同じようなイベントに家族総出で行ったことがある。展覧会だと言うから行ったら即売会だしダマされたわって、ダマされついでに一匹買ってOKにしてしまったような気もする。王国に加担してしまった。


最後の退院のとき、主治医が来るのを待ちながらダンナはさらりとこう言った。


「最後のお願いなんだけどさ、アオちゃんの新しいケージが欲しいな」


アオちゃんとはダンナが一番可愛がっていたマングローブモニターのことだ。そのとき体長60cmくらいだったろうか。最大2m近くになるオオトカゲだ。大型ケージは既にあったのだが、ガラス戸が割れて使えなくなっていた。前に飼っていたサバンナモニターのフォーちゃんがガラス戸をけ破り、脱走騒ぎを起こしたからだ。


—— とある土曜の昼下がり。私は一人リビングでのんびりとお茶を飲んでいた。すると背後からガラスの割れる派手な音がした。瞬間何が起きたのかすぐに理解した。が、振り向くのに数秒を要した。


「ギャァァーー」


仕切りの襖を開け放った隣の部屋の畳の上に、1mほどのオオトカゲが着地している。素早くリビングから出てドアを速攻で閉めた。そして激昂した私はダンナに鬼電した。


「とぉーにかぁーくはやぁくっかえってこおぉーいっっ!!」


そしてフォーちゃんは店に引き取られていった。飼えるケージがもうなかったからだ。
ダンナが亡くなった後、なぜ「フォーちゃん」だったの? と娘に聞いたら


「逃亡者って英語でなんて言うの? ってパパが聞くから、fugitive だよって言ったのを聞き間違えてフォーちゃんになったんだよ」


………おいおいおいおい、
なんだよー………。
ダンナに、やられっぱなしだなあ、私。


部屋を整理していたら、生き物の販売証明書が何枚も出てきた。日付を見ると、亡くなる前年、2021年に集中していることに気がついた。毎週のように買っている月もある。まさに狂ったように買い集めている。
この頃、すでにガンは身体を蝕んでいたはずだ。体調の異変だって感じていたのではないだろうか。


(だからこそ、あんなに沢山飼おうとしたのかもしれない)


ふとそう思った。
もしかしたら、もしかしたらだが、ぼんやりと感じていたのかもしれない、自分が長くないことを。無意識レベルで。言葉にはできないレベルで。そういうのって、人にはあると思うのだ。


         * * *




何も実現しないまま、ダンナは旅立ってしまった。残された仔たちの飼育方法もろくすっぽ聞けないまま…。
終末期の嵐のような日々のなか、世話が行き届かずに死んでしまった仔もいた。一番人馴れしていたラフネックモニターのプテラくんは、ダンナの後を追い12日後に天国へ行ってしまった。弱っていて世話をしていたフトアゴヒゲトカゲも1か月後くらいだったろうか、やはり逝ってしまった。これ以上死なせてはいけない。途方に暮れている時間はなかった。


まずはレオパだ。ダンナが生きているうちに貰い手が決まったのは二匹だけで、これはお世話になったケアマネージャーの娘さんが飼いたいと言ってくれたのだった。しばらくして、卵を産みましたよと連絡をくれたのが嬉しかった。それでもまだ十匹以上いた。私の大学時代のクラスメイトが、知り合いの高校生を紹介してくれていた。ただ兵庫に住んでおり、オンラインで話をしてはという提案にダンナは首を縦に振らなかった。ダンナが亡くなった後、はるばる東京までやって来てくれた高校生男子二人は、部活が生物部だという。どれにしようかと迷っていたが、半分ほど引き取ってくれた。もう一人、やはりクラスメイトが紹介してくれたダンナと同世代の男性は、一家で生き物好きとのこと。残っていたレオパをみんな引き取ってくれた。お子さんたちも大喜びだったそうで、たくさん写真を送ってくれた。できる限りダンナの意に沿うようにしたつもりだ。きっとみんな大切にされているだろう。
次にダンナがよくエサを買いに行っていたお店で仲良くしていた店員さんを通して、マングローブモニターのアオちゃん、ニホンイシガメ二匹、ジーベンロックナガクビガメ二匹、ヒラリーカエルガメ二匹を引き取ってもらった。店員さんには別で一匹、まだ小さいジーベンを譲った。ガックリと肩を落とすダンナが目に見えるようだった。特にアオちゃんに関しては。後日お店に行くと、みんな広々としたケージや水槽で元気にしていた。だからダンナよ、きっと今頃みんな幸せに暮らしているよ。ゆるしておくれ。


いま家にはツナギトゲオイグアナ一匹、ジーベンロックナガクビガメ一匹、オーストラリアナガクビガメ二匹、パーカーナガクビガメ二匹がいる。これがちゃんと世話ができる限界だ。ツナギトゲオイグアナは「ツナ」、ジーベンは「プク爺」、ロンギ(オーストラリアナガクビガメ)は「ロン」と「サム」、パーカーは「マダムK」と「クイーン・モー」と名前をつけて飼っている。もともと犬も飼っていたので毎日にぎやかだ。週末ごとの水換えや掃除は骨が折れる。けれど世話をすればするほど愛着が湧くのが生き物だ。温度管理やエサなど爬虫類の飼育は試行錯誤の連続できりがなく、ハマりつつある自分にも驚いている。ダンナよ、見てるかーい?


私はあと何年生きるだろう。カメは私より長生きするかもしれない。—— まだ死ねないな。