シャーロックホームズとマルクス

   一族の「呪い」?爆笑だ。シャーロック・ホームズ曰く、バスカヴィル家の呪いなど人間の想像力のなせる業。「理性の狡知」の飛翔に過ぎない。(ヘーゲル)何度も国内外で映画化されており子どもたちのロマンでもあった「バスカヴィル家の犬」。

  サー・ヘンリーの慕うベリルは、ステイプルトンの妹ではなく妻。殺されたのはヘンリーでなく、ヘンリーの服を着たセルデン。犬にとっては、ヘンリーの匂いのついた服を着たセルデンも、ヘンリーの匂いを持つヘンリーもヘンリーだからだ。相対性とは視点によって真実が正反対となる場。そして最後の大逆転が起きる。スティプルトンがバスカヴィル卿、ステイプルトン「も」バスカヴィル卿と言った方が良いかもしれない。バスカヴィル卿の肖像画にロウソクで陰翳をつけるとステイプルトンの顔が浮かび上がった。そして、犯人が人間と思いきや犬で、犬と思いきや人間の知恵、それも被害者と思われたバスカヴィル家が加害者。バスカヴィル家に流れる悪知恵、悪霊が加害者だったのだ。

妹=妻
ヘンリー=セルデン
ステイプルトン=バスカヴィル
被害者=加害者
犯人=魔犬=人間(の知恵)=ただの犬

  チャールズ・バスカヴィル卿亡き後の唯一の当主サー・ヘンリー。ヘンリーの父には悪事を働き亡くなった弟がいてその息子ロジャーが近隣の住民ステイプルトン。ヘンリーの遺産をのっとり独占する為、バスカヴィル家(父チャールズと子ヘンリー)に自分の妻を含む女たちを送り込み、色仕掛けで次々と殺人を目論んでいるとは誰も露とも知らない。バスカヴィル家に呪いをかけたのがバスカヴィル「家」自身=ステイプルトンであり、それを理性で見抜いたのがシャーロック・ホームズである。ホームズにかかればオカルトも呪いも悪霊も人間の知恵。魔犬は銃では死なない。

「ああ、まったく。先祖返りが肉体と精神の両方に現われた、きわめて興味深い例といえよう。とにかく、あいつはバスカヴィル家の血を引いている。」(「バスカヴィル家の犬」)この先祖の霊、先祖返りと言われたものを現在は「トラウマ」というがホームズには「霊」と「呪い」の正体が見えていた。霊(トラウマ)は全てを反転させる。トラウマとは先祖代々の霊が「先祖返り」して次世代に取り憑き、後の世代の口を借りて自身を表現する「声にならなかった声」。つまり、個人のトラウマとは家のトラウマ、後世代が背負う2-3世代前の苦しみ。家の呪い、悪霊と呼ばれてきたものだ。(日本に於いては森茂起、海外ではアブラハム&トローク参照)

 コナン・ドイル「ホームズ」の元型、エドガー・アラン・ポーの名探偵「デュパン」もジャン=ジャック=ルソーのプラトン引用を用い、パリ警視庁の「存在するものを否定し、存在しないものを説明する」偏執による誤認逮捕を批判している。(ルソー 「新エロイーズ」第6部 書簡11)デュパンとは「緋色の研究」(1887)においてホームズが比較され、ホームズには珍しくライバル心をむき出しにしたことで有名な探偵である。

「方法論が無い。場当たり的」「物差しはいくらでも繰り出せる」「あるものを打ち消し、ないものを説き明かす』ルソー「新エロイーズ」というやつだよ」 (プラトンによる「パイドン」引用)

「対象に目をくっつけすぎたのではないかな。だから一つや二つの点だけは殊の外はっきり見えるのに、かえって全体像を見失ってしまう…いつまでも星空を見つめたら、金星だって見えなくなるかもしれない」つまり「こうと決めつけ」たことで見えなくなったのだ。

パリ警視庁はル・ボンが犯人であると「発明(空想)」したのであって「分析」したのではない。発明家は「ない」ものから「ある」ものを作り、分析家は「ある」ものから「ない」ものを消去する。

「ものを組み合わせて作る技術力」をもつ発明家は「ないもの」からいくらでもつくることができる。しかし、分析家は大量の観察と推論をこなし、「観察の質によって、得られる情報量に差がついている」「発明は空想から始まり、真の想像には分析がともなう」のだ。分析家は「あるもの」を説き明かし、「ないもの」を打ち消すだろう。

エドガー アラン ポー モルグ街の殺人

 デュパンにも全てを反対にする「幽霊」が見えていた。ルソー「新エロイーズ」の読者なのだから。

「嘗て地上に住んでいた肉体から自由になった霊魂が再び地上に戻ってきて、さまよい、恐らく嘗て愛しく思ったひとのまわりに留まる」「幽霊は幾多の混乱を捲き起こし、まるで精霊に声があって語り、手があって打ちでもするように人の好いおかみさんたちを悩ますのである。肉体の中に閉じ籠められていて、この結合によって器官の仲介を通さなければ何一つ知覚できない魂に対してどのようにして純粋な精霊が働きかけるでしょう」

ルソー 新エロイーズ


 もうすこし分かりやすくルソーをマルクスに翻訳してもらうと…こうなる。

「意識ははじめから「純粋な」意識としてあるのではない。「精神」は「物質」に「憑かれて」いるという呪いをもともとおわされており、このばあいに物質は振動する空気層すなわち音響の、つまり言語の形であらわれる。」

マルクス ドイツイデオロギー

 しかしながら、見えすぎて見えないものが見える人には見える。見えないが見える。ホームズとデュパンには霊による攪乱が見えていた。ホームズが犬を犯人と見抜いたのに同じく、デュパンも犯人がオラウータンだと知覚した唯一の人だ。デュパンがルソーを引用し、ルソーがプラトンを、そしてプラトンがソクラテスを解説したのは、皆に「全てを逆さまにする」催眠術的操作力を持つ「霊」が見えていたからだ。何千年と継承されてきた知識の無駄遣いもいいところだ。しかし、霊の作用とその起源を、感じただけでなく説き明かしもしたルソー本人がその呪縛から抜け出ることの困難を彼の著作と彼の人生の「告白」を通して証明しているのだからその通りなのだろう。

 そして我々が忘れてはならないのはホームズやデュパンが生身の人間ではないことだ。もし生身の人間であれば当局に真っ先に睨まれ、シリーズで続く程の有名人ではなかろう。日本の名刑事、杉下右京も物語上の人物でありながら特命係とは名ばかりの言う窓際族。名探偵コナンも子どもの姿を身に纏いながらも何度も黒の組織に命を狙われている。彼等の生みの親、エドガー・アラン・ポーやコナン・ドイルもあくまでも「推理小説として」、ハインラインやフィリップ・K・ディックも「SF小説」として、そしてJ.K.ローリングやトル―キンも「ファンタジー」として「霊」を書いたから「成功」したのだ。生身の人間で霊に直接対決を挑み、相手の不知を論駁するとソクラテスのように殺される。プラトンが生き延びたのは「ソクラテスの」言葉の代弁者として、見えすぎて見えないが見える人には見える真実=イデア(「ある」ものが「こう」であるという、より正確で理想に近い定義)を説いたからだ。

  20世紀初頭、これら悪霊や呪いの「霊」の正体を「科学的」用語に置き換え学会で発表したジャネやフロイトは職を失い、学会から追放されている。フロイトでさえ社会で葬られないでいるならば、家庭という密室のサスペンス(犯罪)を「子から親への妄想」というオィディプス・コンプレックス理論へと書き換えざるを得なかったし、書き換えたからこそスターダムに昇り詰め、「フロイト」理論として我々の元へと彼の声が届いたのだ。彼は負けることで勝つことを選び、「霊」の「人の目を反対に向ける」霊力に倣い、それを意図的に用いて「モーセと一神教」を著した。彼は「違う」ことを書いて「同じ」ことを言おうとしたのだ。次世代にその暗号解読を任せたまま。

 そしてフロイトを再発見したラカン理論は難解で有名だ。しかし、ラカンはフロイトの暗号を解したからこそ「わざと」ひとに「分からないように」難解に書いたのであり、かれもそれを告白している。分からないような言いまわしで分かる人にだけに分かるように書いているのだ。おかげさまで私はそのメッセージ=暗号の解読に毎日、七転八倒している。そしてフロイトがフェレンツィに学会発表を控えるようにアドバイスしたり、ラカンが我々にわざと「伝わらない」ように「伝えよう」としているのは「分かる」ことを「分からないように」書かねばならないということ。霊が怒るからだ。

 彼等が霊的に信じる「見せかけの世界」こそが真実でなければならないのだ。「見せかけの世界が見せかけの世界であり得るのは、ただ真なる世界の対立としてのみ」従って真なる世界=プラトンのイデアが除去される時、見せかけの世界が真実となる。(柄谷行人 マルクスその可能性の中心)パリ警視庁にたてつく探偵など現実では完全に「業務妨害罪」で逮捕だ。したがって、ニーチェの哲学はひとつの転倒させられたプラトン主義とハイデガーが言うが、西洋哲学が注釈し続けるプラトンの真実と虚構の2分論(ホワイトヘッド)は権力主義を生じさせプラトンは反プラトン(自身の哲学の否定)、一種の原理主義になってしまう。プラトンの「共和国」に表現されるようなエリート主義の行きつく先とも言えるものであり、マルクス主義を経てスターリニズムを招聘してしまう。

プラトン   
上位 超感性(霊)的イデア=真実の世界
下位 感性(霊)的=見せかけの世界

ニーチェ
上位 感性(霊)的 見せかけの世界=真実
下位 超感性(霊)的 真実  →消去

  そして、「霊」にとっても同じなのである。ただ転倒するだけでなく、下位世界が除去されなければ、見せかけの霊的世界が真実の位置を独占できない。ニーチェはここで「霊」のみならず、プラトンにも反発している;「「すべての概念は等しからざるものを等置することによって、発生する」(ニーチェ「哲学者の本」)プラトニズムもひとつの「霊」なのである。

   ニーチェのこの定義がマルクス経済学に負っているのはあまりにも明らかなことだろう。マルクスの受苦的主体は不等価交換のなかで主体性を剥奪されながらも等価交換を信じて生きざるをを得なかった。マルクス主義はここでマルクスが「その不等な差異=平等を取り返そうぜ」と言っていると解釈するが、「資本論」を開いて頂くとマルクス主義とは非マルクス主義。マルクス主義が手に入れようとしている「平等」を問題視しているのだ。マルクスが問題視しているのは不等価、非同一の差異を隠蔽し同一、不等価を等価とする「平等」の「不平等」。その「体系」の「体系性」だ。交換するものと交換されるもの。意味するものとされるもの。異質なものを等価とする恣意性という「霊」。等価交換に見えなければ交換は成り立たないからである。(柄谷行人ibid.)

   不等価を等価、非同一を同一とする「亡霊」は冤罪を生み続ける。マルクスは経済(貨幣)形態のみならず、それを自明のものとする経済学自体に潜む「亡霊」そしてそれを可能にしている言語体系が頭で逆立ちさせたヘーゲル弁証法の「亡霊」。非同一を同一として完全犯罪を目論んだ「バスカヴィル家」ならぬ「○○家」の霊や呪いが皆さんの家にもないか見渡して見よう。「皆さんには霊感があるだろうか?」と今ここで問うている私が用いているこの「日本語」という述語優位の言語はいつも主語を曖昧にする。ニーチェが「善悪の彼岸」でこの文法体系につきまとう我々が背負う亡霊について指摘していたことを指摘し終わりにしよう。「言語が考えさせる」ゆえに言語がその思考と世界の限界と指摘したのはヴィトゲンシュタインだ。亡霊の攪乱に惑わされないために「警戒すべきものは、言語なのだ」(柄谷行人ibid.)


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