安部公房 S.カルマ氏の犯罪 抜粋

パン屋のカウンターで働く少女は証言する。
毎日パン屋に来る客は「つけ」をごまかそうとする。
反対に、少女の眼には見えた。
カルマ氏は正直者で名前をどこかに落としてきて困っていることを。
 
しかし、裁判において裁判関係者が望む証言はカルマ氏が「犯人」であることを示す事実だ。真実を求めているのではない。カルマ氏を有罪にしたい法学者たちは証人としてパン屋の少女に質問をする。
 
被告はパンを食べました。
「盗んだのだな!」と法学者
「いいえ」 と少女。
「なんだ、つまらん」 法学者はがっかりする。
法学者が希求してやまないのは真実ではなく、被告の有罪の証拠にすぎない。
 
「被告はカウンターでつけの帳面にサインをしようとしました」
「ごまかそうとしたんだな。」
「いいえ、毎日のお客さんはみんなそうします」
 
一般客はずるいことを日常茶飯事のようにするが、
彼はサインをするときに名刺入れを見て
少女に彼の名前を聞き
困ったそぶりを見せたという。
 
「私は…きっと被告は名前をどこかに落としたのだろうと思います」
 
少女の真実を見ようとする目には真実が見えたのである。
 しかし
「どっと割れるような笑いが場内をゆすりました。
少女のすすり泣きが嵐をつんざく電線のうなりのように高まりました。
笑いはいつまでも収まらず、次第に大きくなって、ついには少女の鳴き声を覆ってしまいました」有罪を求める法学者たちの気持ちが真実を求める純真な少女の気持ちを覆ってしまいました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?