安かったら欲しい、って思うのはやめようというお話。


例えば、あなたが欲しいと思ってるモノがあるとする。
それは何だろう。ちょっとしたものや大それたものまで色々あるかな。
例えばえんぴつ。例えば一軒家。

一本のえんぴつでもずいぶんと安いものから高いものまである。
おうちなんてもっと、だよね。

ところで、物の値段を決めるのはシンプルなことではなかったりする。
このところ、ソーシャルメディアでハンドクラフトの作家にたいして『材料の原価は安いのだからもっと安く売れ』という無茶な要求をする客とは言えないノイズのような人間の存在が、ちょっと物議を醸している。

材料費云々、みたいな物言いは、要するに自分の感情に理屈をつけているだけであって、その根っこにあるのは「安かったら欲しい」という感情だと思うのだけど、実はこの感情こそ他者に対する害悪というより、そういう考えは自分自身を棄損すると気がつかないといけない。


物の価値そのもの、というより値踏みグセを人に要求する行為は、
自分自身が値踏みをされる、ということを受け入れねばならない。
むしろ、その値踏みグセがある人たちは、普段値踏みをされる側にある、という現実がそこにはあるのだと思う。

損したくない、という感情によって鈍る自分の感性、
失われる他者への想像力、その機会の逸失は思っているよりずっと大きい。

先日、いわゆる100均に久しぶりに行ってみて、
わー、こんなものまで100円!!
と凄く驚いたし、むしろ感動に近いものもあった。
何せ、そこで転がって積まれてる100円のプロダクトの全てが、
ボクが一人で作ろうと思ったらとても100円では作りようがないものだったからだけど。
とても作れそうにないものまで100円。


物の価値、というものはとても難しい。

ボクの弾いているギターという楽器の場合、
フレットという金属の棒を取り換えるリフレットという修理があるのだけど、信頼できるギターの制作家に頼むと大体40000円~50000円は掛かる。
ギターの修理のなかでもそれなりに大掛かりなものだし、
弾き心地や音に直結する部分なので、価格がどうか、というと妥当だと思っている。

実はボクはそのリフレットという作業自体は自分で出来るのだけど、
仮にいつもボクが依頼をしている制作家と同じクオリティと納期で自分がやるとしたら、その値段では見合わない、というか、出来ない。
だからこそ仕上がりが担保されているところにお願いをしている。

高い・安いではなく、自分自身にとって意味や価値のあることだとおもっているから。そしてそれによって自分の時間や生き方を買っていることに他ならないから。

貨幣社会というのは物凄く便利な代わりに色んなものを見えなくする。

スーパーに売ってる魚や肉や野菜だって、
もし自分が全て育てて植えて採って、ということをやっていたら
とても人生の時間が足りない。

洋服だって机だってなんだって、一つ一つ自分で作っていたら
とても人生の時間が足りない。

大きな目で分担して、適材適所に割り振りをして
その『値段』になっているだけであって、
値段とは決して価値そのものじゃない。

モノを見たときに『価値』を感じるのは
自分自身なわけ。決して価格ではない。

モノをみて『安かったら欲しいなぁ』と思ったとき、
はっきり考えなきゃいけないのは、
それはあなたの人生をちっとも良くはしない、

ということ。

『自分だったらもっと安く作れるな』って思うんだったら
別だけど。

安かろう悪かろう、ということじゃなくて、
世の中、びっくりするくらい安くて品質の良いものもあります。

でも、その製品の後ろには必ず人がいるということ、

そして、モノを買う、サービスを買う、という行為は
一見、相手にお金を払ってるように思うかもしれないけど

実際は自分の人生におカネを払ってる、ということを
忘れちゃならんように思います。


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