リアリティーショー的な怖さ(歌壇時評)


以下は、短歌結社誌『水甕』2020年9月号に掲載した「歌壇時評」を一部削除して修正したものです。執筆したのは2020年6月です。

 今年五月、木村花さんという二十二歳の女性が亡くなった。プロレスラーで、俳優でもあった。出演していたテレビ番組『テラスハウス』は複数の男女がシェアハウスで生活する様子を放送する「リアリティショー」と呼ばれるジャンルの番組だった。リアリティーショーには台本がなく、出演者の演技なしのリアクションを楽しむものとされている。ところが木村さんのキャラクターが視聴者に不評で、ネットで酷くバッシングされていた。彼女はそれを気に病んで亡くなったと推察されている。
 プロレスはリングのショーであり、レスラーは体術の他に演技能力を要求される。そして、台本なしと思われているリアリティーショーにも、制作者による意図や演出がある。私は番組を見ていないが、木村さんは本業のプロレスのように悪役としての演技をしたのだろう。その演技で視聴者は彼女を本物の悪人と思い込み、死に至らしめた。
 木村さんの死亡事件は一般的に「ネットユーザーのマナー問題」と言われているが、私はもっと根本的な、視聴者の能力の問題だと考えている。つまり、番組という「作品」と現実の区別がついていないのだ。
 私たちは「リアリティーショーはリアルでなければならない」と思い込んでいる。そのために俳優の演技を人格と同一だと思い込んでバッシングし、逆に台本や演出があると知ると「騙された!」と激怒する。
 さて、心当たりがないだろうか。
 私たちは「短歌作品の内容は作者の体験でなければならない」と思い込んでいる。そのために主人公と作者の人格を同一と思い込んでバッシングし、逆に脚色や虚構があった場合は「騙された!」と激怒する。
 歌会や批評の際、作品と現実を区別して評価しないと、相手の作歌意欲を潰してしまうかもしれない。私性重視の風潮が歌壇にもたらすリアリティーショー的な怖さ、私たち自身が読者として作者を追い込む怖さを自覚すべきだろう。

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