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追分の恋物語(軽井沢5)

昭和60年8月、軽井沢旅行初日、例年通り自家用車で5,6時間かけて碓氷峠を越える。

 夏の盆の行楽シーズンは、すでに過ぎている。しかし、私にとって、軽井沢旅行は1年のうちで最も幸福な時間のひとつに数えられる。

 旧軽のあたりを通り過ぎる。中軽井沢のレストランで昼食をとる。

英語を話す日本人の婦人に会った。住んでいるのはアメリカらしい。富裕層の集まる土地柄か、この別荘地に来ると、庶民の町では見かけない人と時々会う。

 

初めて追分の油屋旅館に投宿する。

追分は、かつて軽井沢、沓掛とともに浅間三宿と呼ばれ、中山道と北国街道の分岐の宿場町だったらしい。夜になると、淡い照明が灯って、江戸の昔に戻ったかのようで、この辺は趣がある。近くに浅間神社、芭蕉句碑、油屋旅館、旅館本陣、桝形茶屋、分去れの碑などがある。

分去れと呼ばれる場所には石燈籠、石像、道標などが残っている。国道を走っていると、目につく風景だ。

 

油屋旅館は、追分脇本陣と呼ばれた古い宿だ。

作家の堀辰雄が「風立ちぬ」を執筆し、詩人の立原道造が恋をした宿だという。最後の文士と言われた中村真一郎にも、その文学世界は通じる。

実際の旅館は木造で、はっきり言って古くて、人気がなくて、寂れている。

私などと違って文学趣味のない宿泊客も、中には、いるのかもしれない。

落ち着いた中年女性の宿の人に迎えられる。玄関から案内されて、長年使われて擦り切れて、きしむような階段を上り、座敷のひとつに導かれる。

部屋から見ると、建物の裏側が大きな窓になっている。窓の外は、一面の山林で、緑が奥まで続いている。

もしかしたら、この部屋で有名な文学者が執筆したのかもしれない。私は自分の目下の書きかけの物語を清書する。同じ環境で良い作品が書けるかもしれない。

 油屋旅館は、その後、時代の変化とともに廃業の危機に瀕して、NPOの運営に移行したと、あとで報道で知った。

 文人に関係のある旅館では、旧軽井沢につるや旅館がある。堀辰雄が「美しい村」を執筆したのは、つるや旅館の方らしい。この旅館は、芥川龍之介、志賀直哉、谷崎潤一郎、正宗白鳥、室生犀星、島崎藤村など多くの文学者に愛好されたようだ。

 

 午後、私は観光ガイドブックに出ている文学散歩コースという道筋を1人で歩いた。文学散歩は地味な趣味なのか、人影はなかった。散歩道は、山林の中の雑草の生えたありふれた道だったが、旧中山道の名残らしい。こんな場所を江戸時代の参勤交代の大名行列が通ったのか。

途中で見上げた山の上には、テニスコートがあるようだ。女子大の保養地の宿泊所も、いくつかあるようだ。途中、2人の若い女性に、やっと会えた。声はかけずに通り過ぎた。

 それから国道添いの喫茶店に入り、郷土資料館に寄った。

 旅館に戻り、食堂で1人の夕食を取った。従業員と少し話した。18年勤める中年の女性と若い女性だった。ふたりとも親切だった。しかし、宿の中は、客の数は少ない。

部屋に戻ると、自作の物語の清書を続けた。1人で寝るには広すぎる和室に、その晩泊まった。

 

軽井沢旅行2日目、旧軽井沢まで出かけ、駐車場に自家用車を置いた。自転車を借り、旧軽銀座、三笠通りと回った。観光客らしい若い女性を時々眺める。

 駅の南まで行って、堀辰雄記念館(高原文庫)を見学し、塩沢湖畔で昼食をとった。

駅の北に戻って丹念亭という有名な喫茶店でお茶を飲んだ。旅館に帰って、また執筆を続けた。

 

軽井沢旅行3日目、近くのショッピングセンターで、必要に迫られて電気かみそりを買った。非日常的な旅の空間に、日常の空間がふいに入り込んできた気がする。

車で中軽井沢駅から北に上り、高輪美術館でシュールレアリズムの彫刻を見学する。途中、星野教会に立ち寄る。

昨日に続き、再び南下して塩沢のレイクニュータウンに着く。

アイスクリームをなめながら、目についたテニスの試合を観戦する。都会の企業の若い女子社員たちらしく、別荘地の軽井沢にその姿が似合う。

 町立植物園、クレー射撃場も見て回った。

 

軽井沢旅行4日目、旧軽駅前の、これも有名な喫茶店茜亭で、約束通り友人Aと会った。

予定通り追分の油屋は3泊で引き揚げる。旧軽のペンションに、友人と投宿した。それから2人で駅前を歩いた。

 自転車で林の中を、風を切って走り抜け、ファミリーレストランで食事して、再び塩沢に行って湖でボートに乗った。

 私たちは若かったから、若い女性を見ると声をかけたくなる。

 見かける女性の中には、かわいらしい女性、きれいな女性がいる。雑念がわいてくる。しかし、一方で冷めた感情も覚える。

ほとんど毎年、私たちは当地にやってくる。風景は変わり映えしないが私たちは年を取っていく。

若い女性たちも、毎年、この有名な観光地にやってくる。しかし、3年5年経つうちに、女性たちの方は、世代が変わり、年代が変わる。毎年飽きずにやってくる人は多くはないようだ。

 そう考えると、私たちの昔ながらのナンパの楽しみも半減してしまう。

 昼食はラーメン店に入った。関西の旅行客が意外に多かった。先方は、関東の客が多いと反対に思っているのかもしれない。

 

軽井沢旅行5日目、この日は新しい友人と交わった。Aの職場の友人Tとその恋人と、軽井沢駅のそばのコートでテニスをした。近くに整備された山林、遠くに稜線の緩やかな山並み、別荘地の風景は、いつ見ても、すがすがしい。

隣のコートには、若くて可愛い女性が4人いた。こちらのボールがあちらのコートに入ると、1人が笑って、ボールを投げ返す。

 夕方から、旧軽のビアホールで飲む。オープンテラスで、かがり火の演出がしゃれている。

聞けば、友人の恋人は10歳年下だという。私は興味深い視線を、人当たりのよいアベックに投げかける。

夜は、途中で古本屋に寄った。Aも私も、学生時代に神田あたりを歩き回った文学青年の性癖が残っている。この辺は、別荘のインテリ族の読み古した本などが集まってくるらしい。

 恋人たちと別れて、私たちは引き続きペンションに泊まった。

 青春の恋にそれぞれ破れたAと私は、体験を語り合う。

 私は会えなくなった最愛の女性を思い返す。油屋で書き続けた恋愛物語の題材と主題が思い浮かぶ。

今生の別れだ。会っても、やり直しはきかない。人生は、そんなに甘くない。別れは過酷で薄情だ。2度と会えずに、この生は閉じるだろう。

 

軽井沢旅行6日目、車で愛宕山から中軽井沢のテニスコートに行く。この日もテニスを楽しむことにした。隣のコートは女性10人だった。声をかけるが、当方の都合で、共に過ごす時間が少なくて、人数も合わず、帰途に就いた。

 帰りは、北軽を回ることにした。夏のハイシーズンは、南回りは混雑するため、それを避けた。林道を抜けて、道は荒れているが、空いていて速い。

 高崎で、Aと私は別れる。軽井沢詣でを毎年繰り返すうちに、昔の日々の輝きが少し薄れたように感じられる。避暑地ばかりか、青春の新鮮さも薄れたように感じられる。

 

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