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「やらない理由よりやる理由を!」、私は嫌いだ

「やらない理由よりもやる理由を見つけよう!」という言葉をよく耳にする。例えば、上司と部下がいたとしよう。なにかに挑戦するときや新しい一歩を踏み出す時に鼓舞する場面で、部下が「新しい挑戦をしない」と言ったことに対して、上司が「やらない・できない理由じゃなくて、やる・できる理由をもってこい」的なことを言ったりする。

僕はこの「やらない理由よりもやる理由」がとても嫌いだ。

確かに、何かをスタートさせるために「やる理由」を見つけて、邁進するのはすごく大切なこと。爆発的に動いていくために必要なエネルギー源となると思う。

やる理由を見つけて、行動するのはとても素晴らしいことだ。

でも、何かを挑戦しようとするときに、挑戦から逃げようとする「やらない理由」をあまりにも否定し、ないがしろにしすぎているんじゃないかと。
人が挑戦するときに、またはさせようとするときに「やる理由」という考えなしの押し付けは、なんてパワハラだ!とくらい思ってる。

▶︎新しい挑するとき

新しい挑戦をするというのは「理想へ向かっていく」ことだと思う。作りたいサービス、空間、世界感。ようするにユートピアを作るのに近い。
自分自身や所属している会社・組織が向かいたい場所、作りだしたいユートピアをこの世に出現させるために「挑戦」という手段を用いると考えている。

理想を掲げた瞬間に発生するのは、現実との対峙だ。
現実がすでにユートピアであるのであれば、「挑戦」という手段を用いる必要は当然だがまったくない。
私たちが生きている現実と掲げている理想にギャップがあるから人は挑戦という手段を用いて、理想に近づこうとする。

▶︎人は「不安」という感情を持っている

しかし、「理想への道」というなんだかよくわからない果てしない道のりを進むにあたって、「挑戦」という手段をとった時(決断)に生まれてくる感情がある。

それが「不安」というものだ。

まちづくりにしてもベンチャー界隈にしても、この不安をかき消すくらいの「やる理由」ノイズが発生している気がしている。
一部の起業家などはこの不安をかき消すくらいの情熱と行動量をもって、制御しているが、それは属人性が高すぎて、再現性があまりないと思っている。

例えば、サッカー日本代表の長谷部誠選手やメジャーリーガーのイチロー選手の自伝や自己啓発本などを読んだ人、全員が全員、ポジティブになって日本代表になったり、メジャーリーガーになったり、起業家になるために行動したりをしているのだろうか?(なるためにはいろいろな要因がある!とかの揚げ足を取らないでね)

人が誰かにやらない理由を持っていく時は「不安」で仕方がないのだと思う。
現実からスタートして理想に向かう時に、その道のりにとても大きて数も多い障壁が立ちふさがる。
しかも、厄介なことに見えているものもあれば、見えないものも存在している。

その障壁の合間、合間をゆっくりと一歩一歩確認しながら、進まないといけない。ちなみに、一歩間違えたら、奈落の底に落ちてしまうような感覚だ。
(これで不安にならないくらいの狂気があれば、問題ないのだが。。。笑)

そんな不安を抱えながらも、理想に向かうのであれば、挑戦という道を選択しなければいけない。

この現状を把握した上で「やらない理由じゃなくて、やる理由を!」なら理解できる。
ただただ理想に向かうためだけに、「やる理由を!」と言って、挑戦するために自身または他者が抱えている不安をないがしろにするのは大切なヒト・モノ・感情を生贄に捧げているような気がする。

誰もが「不安」という確かにある感情を見捨てている感じがしていて、僕はいやだ。(わがままっぽく聞こえるな笑)

不安を発生させる障壁の存在が一体なんなのか?それらを存在把握してあげて、不安と少しずつ向き合うことをしたほうが、結果的に「やる理由」よりも大きく動けるのではないの?と思う。

▶︎「不安」が「不快」に変わった瞬間に

たまに「不安」が「不快」という感情に変わる瞬間がある。
その挑戦はやめてしまった方がいい。
そもそもの目指すべきユートピアが違う可能性が高いのだから、その挑戦に時間を使うくらいなら、やめてしまって別のユートピアを探すことに時間を使ったほうが豊かだと思う。
そして、不快な感情は伝播しやすき、すぐに周囲に対しても悪影響が及ぶし、何より自身にとって非常にマイナスなので今すぐにでもやめたほうがいい。
それでもやりたい!というある種の狂気が満ち溢れているのであれば、一旦、手を止めて田舎にでも行って休んでもいいと思う。たぶん、焦燥感だから、それ。

▶︎「やる」「やらない」「続ける」「やめる」、
▶︎それぞれにリスペクトを

やらないという理由を持って来て、やらないという決断をするのも非常に覚悟のいることだ。
その決断に対してもリスペクトがあってもいいと思うのだ。

今は「やる」ことが正義になりすぎている。
「やる」「やらない」「続ける」「やめる」
この言葉自体に「正義」も「悪」も存在しているのだろうか?

存在しているのであれば、それは言葉にではなく、「人間」としての立ち振る舞いが言葉に付加(エンチャント)されているからだろう。

もし、周りの人が、あなた自身が「やる」「やらない」「続ける」「やめる」という決断をした時には、今一度、自分自身が抱えている不安とも対話をしてもらいたいと思う。

2018/08/02 


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