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「ご遠慮ください」と「ちょっとだけなら」の関係


ご遠慮ください

※これは僕自身の生きてきた上での考えというか、こう見なして当然であろう、ということを前提の上でここに語るものであります。

以前、「ご遠慮ください」という言葉についての記事を読みました。
結構な衝撃というか、腑に落ちた、という感覚が非常に縦幅が広かったのをよく覚えています。
内容としては、

「ご遠慮ください」という言葉を受けたとき、「ちょっとだけなら許される」と受け取っている人が一定数存在する

というものです。
そうだったのか!と。
長年の謎が解けた、といった感じです。

それをやると他人に迷惑になる、ということをやってしまう人達

僕もそこそこの年月の人生を歩んできて思うことですが、世の中には他人に迷惑になることを平気でやっちゃう人達がいます。
何故やるのでしょう?
これがさっぱりわかりませんでした。
例えば路駐とか。
そこに停めちゃったら対向車も通れなくなる、という場所に、短時間であろうと停めてしまう。
ひどい場合には歩道に駐車したりで、ベビーカーを押す若いお母さんがわざわざ車道に出ないと通れないというケースもあったり。
こういったことは毎日のように目にします。
思うところはありはしますが、そういった迷惑行為をやる人達の男女の差、老若の差はここでは述べません。

ちょとだけなら許される、と思ってやってしまう人達

長年の謎でしたが、「ご遠慮ください」を「ちょっとだけなら許される」と受け取っている人達なら、なるほどこんな行動に至るのも当たり前だろうなと。
ちょっとだけなら許される、という勘違い自体もさることながら、自分の利益を優先して、(見ず知らずの)他人の不利益を強いるわけですね。
事前の合意もなく行わる身勝手な行動など、不利益の程度の大小にかかわらず迎合されるものではないでしょう。

自分の行動では問題は生じないと思っている人達

もっと紐解いていくと、おそらくは、ちょっとだけなら許される、というよりは、
自分の行動では問題は生じない
と高を括っているというのが真実だと僕は思います。
いやもっと突き詰めると、
その行動に何の付加的思考も伴わない
が真実なのかも。
無謀な行動を採る人には「ちょっと」等の物差しはそもそも存在しないと思うのです。
例えやすいので僕はよく車の運転を絡めて話しますが、うちの住宅地でも狭い道路で暴走している車ばかりです。
子どもや高齢者も多く、ブラインドで見えなかったり、脇の道から自転車が出てきたり。
全ての区間を徐行するとまでは言いませんが、自分が対応できる蓋然性を高めるために一定の速度を保って走行するのが妥当だと思います。
でも、そんなのお構いなしで、30km/hなら40km/h出して、40km/hなら50km/h出していいとか皆勝手なことを思っていて、脇道が多い場所でも飛ばし、ブラインドにもショートカットで突っ込んでいく。
それで何かあったら「ブレーキを踏んだが間に合わなかった」だのと言うわけです。
言い方変えれば、運転下手な癖にスピードを出し、即座に対応もできない癖にスピードを出し、何がいるかわからない穴に平気で手を突っ込む。
許される、というよりは、自分の行動でどういう結果を招来しかねないか、ということを想像することができないから、無謀なことをやってしまうのでしょう。

ルールを守らない(守れない)ことから生まれる「ちょっとだけなら」


よくよく考えると、そもそも、法律自体も「こうやれ」「それをやっちゃダメだ」というのを定めているわけで、スピード違反や横断歩道絡みの38条など、ルールを守っていない車の方が多いのですね。
そうなると、「ご遠慮ください」というのは実際ははやめてくれと同義なのに、やんわりと「できればやめてね、ちょっとならいいけど」と言われていると勝手な解釈をする人達が登場してきても当然なのかと。

ルールを守らない人、破った人が、「ルールさえ守ればいいのか?」という謎理論をよく口にします。
ルールというのはそれを守れば大抵はマズイ状況から逃れられるという前提で作られているわけです。
自分勝手な物差しでルールを破られるよりは、ルールさえ守ってもらった方が遥かに安全で、迷惑を被るケースは減らせる。
極々例外もありこの場合は特例としてルールを変更するというケースもありますが、それはあくまでもレアケースの特例でしかありませんので。

(よく他のレアケースを根拠にルールの例外をもって自分の行為を正当化しようとする人もいますが、そういう人は自分の行為の「質」については誤魔化すので、ここは注意が必要だと思います。)

そもそもそういう人達だって、他人が何かしらやらかして自分が不利益を被ったら、「法律(ルール)」を根拠にして文句言うんですから。

おわりに

うちの近所でも、カーブになっている先の公園に接した道路向いのお宅の娘さんが毎日路駐しています。
これがほんと危なくて、僕はかなりスピードを落とし、カーブ先のその車の陰に人がいないかと注意しながら進みます。
以前高齢者のご夫婦がその車の脇を通ろうとして、後ろから猛スピードで近所の奥さんの軽が通り過ぎ、慌てて引っ込もうとして倒れかけたケースを見ました。
迷惑な路駐と、歩行者がいるかもしれないという配慮すらできないドライバーの無謀運転、これらのコンボです。
駐禁とスピード違反という、ちょっとだけどころじゃないことをやる人が日常的に存在するのですから、そりゃちょっとだけよと他人に迷惑をかけても知らんぷりの人間が一定数いてもおかしくないですね。
上記の路駐のご家庭もそうですが、そういうご家庭はご両親も路駐を了知しているわけですから、「ちょっとだけなら」とか「自分の行動では問題は生じない」とする傾向は、「家」単位でのものだと僕は思っています。
やはり教育は必要で、また教育以前に上の世代がまっすぐな道を進んで、良き手本を見せて伝えることが肝心でしょうね。

tomo拝

(追記)
追記ですが、以前仕事でもルール違反して悪びれない人がいて、僕がルール順守を要請したら、上席から逆に僕が責められるということがありました。
厳しく言うな、と。
その後ルール違反について是正が行われたかというと、皆無。
色々と思うところはありますが、こういうケースもあって、僕は自分で改善できる場合は自分で改善して、そういったルール違反の人(ちょっとだけなら許される、と自分で勝手に思っている人)には関わらないのがベストだと結論づけています。
なるほど過去の偉人たちの言葉を見ても、遥か昔からそのセオリーは存在っしており、僕も何度もそういった書籍を読んでおきながら、なかなか実践に移すのが難しいと痛感しています。
直接的に大きな害となること、自分にとって大切な人達に危害が加わることなど、そういったケース以外でのどうしようもない相手はとにかく放置、関わらない、ほうっておく、自分で改善に動く、を採用するように心がけます。


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