「まだまだ物語が必要」とはどういうことか?

およそ1か月前に書いた『にくをはぐ』という漫画に関するnoteについて、多くの方にスキをいただき、またツイッターでもRTを多くいただき、ありがとうございます(サポートしていただけた方もいらっしゃって、驚くとともにとてもうれしかったです)。

そんなnoteの感想や漫画に対する感想を、主にツイッターでウォッチしていたのですが、中には「ジェンダーによる差別を再生産している」といった意見や「女性差別は結局後回しにされる」(いずれも意訳)といったことをつぶやいている人もちらほら見られました。

そんな中で、トランス男性に関する漫画がもう1作発表されています。ヤングマガジンの編集者さんがツイッターにて全ページを掲載していますが、第77回ちばてつや賞受賞作で『明るい』という作品です。

『にくをはぐ』は26歳というそれなりに歳を行った(という言い方もアレですが)トランス男性ですが、こちらは高校生、つまりティーンエイジャーのトランス男性を扱った物語です。
なお、作者もトランスジェンダーであるとのことで、つまり当事者による作品です(連載作品も始まっている模様)。

公募作ということでページ数は少なめで、かつティーンのトランスでもあるので、いわゆる"治療”の描写等々は無く、学校でのいじめやミスジェンダリング(トランスジェンダーの人を、本人が望まない性別で扱う行為。例えばトランス女性を男呼ばわりしたり)といった、主人公に対する差別に焦点が当てられています。

トランス作品に「保守的な価値観」が混じることに対する批判

さて、『にくをはぐ』の時もそうだったのですが今回も、作品に保守的な価値観が混じることで、批判する向きがあります。
今回は特にホモソーシャルの絆(男性同士の関係性)が関わる描写に絡む部分(たとえば女性のお客さんを"品定め"するような会話)で、そのような批判が見られました。

私は、前回のnoteにおいて、『にくをはぐ』の主人公である千秋が保守的なジェンダー観を持つことを前提として、「フェミニズム的な観点から見れば批判されうる物語」であるとしたうえで、一方で私たちには「まだまだ物語が必要」なのだと主張しました。
今回の作品についても、私はそのように考えます。
ただし私は、今回の作品について、ホモソーシャルの価値観を全肯定しているとは考えませんし、むしろグロテスクさもしっかり臭わせていると読んだことは、付け加えておきます。

ではこの、私たちには「まだまだ物語が必要」というのは一体どういうことでしょう?

「まだまだ物語が必要」とはどういうことか?

トランスジェンダーの当事者が現実にどう考え、どう生きているか、どのような差別に直面するかは、マジョリティにおいて広く共有されているとは言い難いのが現状です。
そして、マジョリティの想像するトランスジェンダー像は、往々にしてステレオタイプ的であり、現実に即したものではありません。

加えて、小説・漫画・アニメ・ドラマといったジャンルを問わず、フィクションの世界において、セクシャルマイノリティのリアルが十全に広まるように努力がなされているとも言い難い。
トランスジェンダーに関して言えば、トランス女性は長い間"オカマ"として極めて差別的なステレオタイプだけが描かれ、トランス男性は存在自体が無視されてきました。

そのような状況において、そのような状況だからこそ、リアルな世界に根差した形で(つまり当事者からみてある程度ファンタジーで無い形で)描写されるトランス男性(トランス女性)の物語は、私たちにとってまだまだ必要である、というのが、私の考えです。
それらの作品は、ティーンのトランスにおいては自分のような人達が他にもいるという光を照らしてくれるはずですし、作中の人達が作品の中で肯定的に扱われる事は、自己肯定感が欠如しがちなトランス性にとっては、心の支えになることもあるでしょう。

作品を正しく批評するために、必要なこと

ならば、トランスジェンダーに対する差別がなくなるまでは、トランス男性(トランス女性)のもつ性差別主義的な価値観について批判してはいけないのか?という点について考えます。
結論から言えば、そんなことはありません
そんなことはありませんが、シスジェンダーのマジョリティの人がそれをするためには、トランスジェンダーの現実について、より詳しい知識が必要です。
そこには、トランスジェンダーに対する敬意と尊重が求められます。性同一性を尊重し、社会として守る努力が求められます。
トランス男性を「結局のところ体は女」と見なしたり、トランス女性を「結局は男の変形」と見なしている状況では、公正な批評はできません。
また、リード(トランス前の性別がバレること)やミスジェンダリングを恐れることからくる、「より女性らしく」「より男性らしく」というパス度を求める、というよりも生きるために求めざるを得ない状況を無視して、そして何より、身体違和と医学的に言われる、説明のしようがない自身の身体に対する嫌悪感、間違っているという感覚、それを知らぬふりして「ジェンダー規範を強化している」などという一面的な批判を加えるのは、あまりに浅い読み込みだと言わざるを得ません。

これは別に、トランスジェンダーに限った話ではないはずです。
男性が女性差別について語る際、ヘテロセクシャルの人がホモセクシャルについて語る際、あるいは日本人が在日外国人について語る場合も同様です。
マジョリティがマイノリティについて語るときには、相応の敬意と知識が必要なのです

トランスジェンダーの人達に内在する性差別主義を話すことができる時代のために、マジョリティはどうすべきか?
道は一つだと私は思います。トランスジェンダーのリアルを知り、トランスジェンダーの価値観を尊重し、それらがマジョリティにおいて広く共有される状況を作り出す努力をマジョリティ側がすることです。

以下は、シスジェンダーの人達がそういう話をするための手助けとして、『明るい』や『にくをはぐ』の時の感想等々を例にだしつつ、いくつかの観点を出していこうと思います。

現実の社会は性差別的であるという事実の忘却

『にくをはぐ』の時もそうであり、また『明るい』の作品批評についても見られたのですが、このようなタイプの批評が、時折見られます。

先述したように、私はそもそもこの作品において少なくともホモソーシャルを無批判で"肯定している"とは見ません。ですので私は、この人の読み方には賛成しないことを、はっきり言っておきます。

忘れてはならない重要なことは、私たちの暮らす世界は、そもそもが性差別的である、という事実です。

現状、特に男性同士の関係性はおおむね性差別的です。時に女性を"品定め"し、時に男らしさを競い合い、時に同性愛者を嘲笑する、そういったホモソーシャルの絆を基礎とする関係性が、続いています。
そして、そのような男性社会の大多数を占めるシス男性は、好む好まないにかかわらず、ホモソーシャルの規範に相対する必要に迫られます(注意しなければならないのは、女性の社会も男性と五十歩百歩くらいには性差別的であるという点で、この事は"フェミニスト"の中でしばしば忘れられます)。

では世の中の男性はどのようにその規範に相対しているのか?
ホモソーシャルの価値観を肯定的に見るか否定的に見るか、その価値観に迎合することのメリットはどの程度か、迎合したところでピラミッド状のヒエラルキーのどの位置に立てるか、ヒエラルキー下位に組み込まれることのデメリットとホモソーシャルから距離を置く事のメリット、逆に距離を置く事からくるリスク、背を向けることで起きる重大なペナルティの可能性等々を勘案して、人それぞれが立ち位置を決めているのが、現実です。

そのような社会においてトランス男性が(フルタイム・パートタイム関わらず)男性として生活する以上、やはり好むと好まざるとにかかわらず、ホモソーシャルの規範に相対することになります。

つまり、性差別主義的な社会において男性として暮らす以上、トランス男性は好むと好まざるとに関わらず、このホモソーシャルの絆に関係せざるを得ないというのは、まさにリアルなトランス男性描写であると言えます。
にもかかわらず、その事実は時に忘れられ、結果として性差別主義的な価値観が顔を見せる(あるいはその規範に従う)ことばかりが批判されるというのは、トランス性からみたらいびつな評価・批判でしかありません(トランス女性が女性差別に会う構図も、やはり同様)。

ではなぜ、そのようないびつな評価が多く出てくるのか?それを生み出している源泉の一つが、シスジェンダーの人の「身体性」に基づく偏見です。

「身体性」に基づくトランスジェンダーの価値観への偏見。

『にくをはぐ』の時もそうだったのですが、シスジェンダーの人達の感想からは時に、トランスジェンダーの身体性から来るバイアスが透けて見えることがあります。
シスジェンダーの人は、時に「身体性」が同じ(あるいは異なる)トランスジェンダーの人の考え方について、「身体性は自身と同じ(別)なのだから、同じような感じ方を共有しているはずだ(共有していいないはずだ)」と見なすことがあります。
シス女性とトランス男性の軸においてこの見方は、女性差別に絡んだときに特に顕著です。
『明るい』における感想を一つ引用します。

この方はつまり「トランス男性といっても体は女なのだから、女性が性的に消費される感覚には敏感なはずだ」と考えているわけです(だから、それに大して明確な反発を見せない『明るい』の主人公は、トランス男性としてよく書けていない、とまで考えてしまう。作者はトランスジェンダーであるにもかかわらず)。

逆のパターンもあります。「トランス女性といっても体は男なのだから、女性差別に関しては鈍感に違いない(あるいは真の女性差別は分からないor差別を受けても軽微だ)」というような思い込みです。

これらは、漫画等々フィクションの批評だけにとどまりません。
トランスジェンダーの人がシスジェンダーの人と相対する時、リアルでも日常的に感じている事でもあります。
たとえばトランス女性については、トランス女性が少し"男らしい"そぶりを見せただけで、「やっぱり彼は男性なのだ」というような具合で現れます。逆にトランス男性が少しでも弱いところを見せれば「やはり彼女は女だ」となるわけです。

このことからわかるのは、シス・トランスの軸においてマジョリティであるシスジェンダーの人達は、意識するしないにかかわらず、自分たちの尺度でものを考えがちであり、しかもそれが正しいと考えがちである。ということです。

実は、この手の構図は他の差別でも頻出します。
たとえば女性差別において、「女性が性的に消費される感覚」は、マジョリティである男性との間で、共有しにくい感覚の一つです。
その感覚のズレに対して、男性はそれを「自分たちは楽しんでいるのだから、女性達も同じ様に楽しんでいるはず」というような、自分側の感覚に引き寄せて考えてしまうことが往々にあります(そして、マイノリティがそれと異なる感覚を主張する創作物を目にすると「その感じ方は間違っている」と思ってしまう)。
その行為は、女性の境遇を覆い隠し、場合によってはその困難を見逃すことに繋がる危険があります。

それと同じことです。
今回のケースで言えばトランス男性の感じ方を、シス女性の基準をそのままあてはめて考えるのは、トランス男性の境遇を覆い隠し、場合によってはその困難を見逃すことに繋がる危険があります。
加えて、トランス性の価値判断や言動の根拠を、身体性に還元する動きが続く限り、トランス性はそれを回避するために、より"らしさ"を求める構図は温存されるでしょう。

男性が女性差別について語る際、マジョリティである男性と、マイノリティである女性との"ズレ"について敏感になることが求められます。
シスジェンダーの人がトランスジェンダーについて語る時は、それと同じことを求められるはずです。
そうしなければ、男性が生兵法で女性差別に語った時と同じように、トランスジェンダーの実態に即していないシスジェンダーの傲慢な発言に過ぎない、という反論を受ける羽目になるでしょう。

最大の問題は、シスジェンダーの"フェミニスト"がトランスジェンダーについて語る際、この感覚は往々にして無視されることです。
フェミニズムは男性に対して常にそれを求めてきたにも関わずです。

意図的に見過ごされるシスジェンダーの多様性

前の項目で私は、「トランス男性といっても体は女なのだから、女性が性的に消費される感覚には敏感なはずだ」という感覚が、場合によってはシスジェンダーの傲慢な見方に過ぎない、という事を述べました。

ここで、もうひとつ重要な視点を考えなければなりません。
それは、トランスジェンダーについて語られる時に、実際にはシスジェンダーも多様である、ということが忘れられていることが往々にしてある、ということです。
言いかえれば、そもそもシスジェンダーは思うほど均一では無い、という視点の欠如です。

現実には、シスジェンダーの女性であっても女性差別への感度は様々です。
差別に対して敏感に反応する人もいれば、むしろ「何が悪いの?」と思ってしまう人もいる。
思考においても、極めて男性的な考え方をする女性もいれば、その逆もいる。性差別的な作品をさほど違和感なく受け入れて、楽しんでいる女性もいれば、その作り手側にも女性が関わっていたりする。
こういった女性の多様性は、ネット上のフェミニズムでは特に忘れられがちです。

実のところ、女性内での多様性を無視した「女性は共通の抑圧経験を受けている」といった幻想は、フェミニズム内部でも批判されてきた視点です(たとえばベル・フックスは黒人女性という立場から、これを批判しています)。フックスの『フェミニズム理論』ではこのような一文があります(P71 )

共通の抑圧という概念は、女性の多様で複雑な社会における現実の本質を偽り、あいまいにしてしまう見かけだけの誤った土台だった。

にもかかわらず、何故トランスジェンダーの文脈でこのような感覚が強く打ち出されるのか?

そこには、反トランス・フェミニストのトランス差別における批判戦略という、より政治的な意図が見え隠れします。

反トランスのトランス批判戦略

ここでまず一つ、動画を紹介します。
実際に反トランスの人が、トランス性ジェンダーにたいしてどのような論法で批判をしてくるのかについては、とてもよくまとまっている動画です。

海外の動画ですが、日本でもほとんど同じ論法がほぼ同じ形で使われています(英語ですが字幕で日本語を選べます)。非常にわかりやすく、そして面白い動画なので、是非一回は見てください。

動画内でも分散的に触れられているのですが「反トランスな"フェミニズム"」(この人達は自身を"ジェンダー・クリティカル・フェミニズム"と名乗ることがあります)の人が、トランス女性を否定する際によく使う論法の中に「共通の抑圧を経験していない」というものがあります。

つまり、男性として生まれた"トランス女性"は、女性として生まれた"女性"と同じ経験をしていない。だからトランス女性は女性では無い、というような論法です。
ここにはさらに、男性としての特権を受けてきた、とか、そういった形の尾ひれがくっつくのが、常です。

上記のケースはトランス女性についてのものです。ならばトランス男性についてはどうか?というと、今度はカードの真裏のような主張が出てきます。
つまり「女性としての抑圧のせいで男性だと思いこんだ」とか「女性差別が無ければトランスせずに済んだ」といった主張です。

言うまでも無いのですが、このような形でトランス批判をする際に、女性も多様な価値観を持っていて、実際には"共通な経験"を積んでいない、という事実は大変に都合が悪いのです。
そのため、反トランスなフェミニストは、この事実を半ば意図的に無視する傾向があります。

つまり、「トランス男性といっても体は女なのだから、女性が性的に消費される感覚には敏感なはずだ」といった方面での作品批判は、シスジェンダーのある意味素朴なマジョリティ感覚を超えた、より政治的な悪意を持ったものである可能性を、私たちは考えなければなりません。

念のために言えば私は、トランス男性が女性差別に鈍感だとか、トランス女性が女性差別に敏感だとか言っているわけではありません。シス女性・シス男性がさまざまであるのと同様、トランス女性・トランス男性も様々なのだ、というだけのことを言っているに過ぎません。

最後に:トランス作品を読むのに重要なこと

以上、長々とトランスジェンダーの作品を読む時に気をつけるポイントや、ある種の批評には政治的な意図が入り込んでいることを指摘してきました。

最後になりますが、トランスジェンダーの作品を読んで、その解釈を考える時、一番重要なのは何か?を伝えます。

それは「当事者の声」を聞く事です

リアルに生きるトランスジェンダーの当事者が、作品を読んでどう感じたか、どのような感想を抱いたか、ツイッターで検索するなり、noteを読むなりするのが、理解を深める一番の近道であると私は思います(念のため言っておけば、私はトランスジェンダーの当事者ではありますが、トランス男性の当事者ではありません)。
たとえば下記のは『にくをはぐ』に対するFt当事者の感想です。

挙げたのはあくまで一例で、当事者でも「自分の立場とは異なりすぎて楽しめなかった」といった感想を持つ人はいます。
そういった人達の声を、丁寧に聞く事が、私は重要だと思います。

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