T.Yamazaki

オフトゥン依存症。得意技は「ダブルベッドに横寝」。

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マガジン

  • わたしの祖母の物語

    このお話は、明治後半に生まれた祖母による「自称『おしん』より壮絶な人生」を描いたもので、明治20年から昭和54年くらいまでのことが便箋約40枚に綴られています。祖母が自分で書いたものだそうです。 当時の女性の思いが詰まった、読みごたえのある「『おしん』ほどではないが結構つらかった人生」の話です。

最近の記事

幸子、実父に逢う~わたしの祖母の物語⑧

年頃に成った妾しに兄は、「お前はおれの妻になるのだ」と人様の前でいいます。 父もその気でゐるらしいのです。 妾しは嫌で嫌でたまりません。 いやな兄、面白くない家、つらい立ちばの母、何も彼もいやになった妾は育ててもらった、恩ある祖父母、やさしい叔父夫婦の事も忘れて家をとび出して旭川行き、女弁士としてたべて行く事になりました。 一年ぐらいたった時、父が妹をつれてむかいに来たのです。 帰らぬつもりの妾しも妹に泣かれて帰りました。 妾しが祖父と二人で野付牛に来てから、弟一

    • 弁士、一條民子~わたしの祖母の物語⑦

      此れをきっかけに妾は弁士の免許をとり、一條民子の芸名で舞台の人と成りました。 其の時、カルカヤの役をやった人が浅田でした。 浅田は高校を出て失恋して弁士と成ったそうです。 其の時の浅田にわ、叶屋と云ふ料理屋に文子と云ふ、深い仲の夫婦約束をした人が有りました。 又、妾の舞台での師匠でもありました。 よく遊び、父の片腕でも有りました。 妾の芸名は、浅田民雄の民をとって一條民子と付けたのです。 説明者としての免許もうけ、資格も取った妾しは、舞台の人と成りました。 妾

      • 劇場で働く~わたしの祖母の物語⑥

        どうにか六年卒業した妾は女學校に行く事をたのみましたがゆるされず、劇場の手伝いをする事になり、東京から送られてくる物も「不自由はさしてゐない」と父に怒れてことわりの手紙を出しました。 その後、東京からわ何も送ってこなくなりました。 父は古い劇場をこわして、二條西三丁目有楽座と云ふ常設館を立てました。 どうじに父の弟夫婦も来て大かぞくに成りました。 妾はテケツ、兄はギシとして働く事に成りました。 父の力ぞえもあって、劇場の前に床屋を出した叔父は結婚して、やさしい叔母も

        • 父が探している~わたしの祖母の物語⑤

          妾しが心配な祖母は小樽の家を売り、叔父を呼んで東三丁目に床屋の店を出してそこで暮らす事に成り、妾しが七才になった時、警察から捜索願いが東京の石坂幸益と云ふ人からだと○○でした。 秋田で母と妾しをおいて大學にもどつた父は、母一人子一人の人でした。 卒業して本所、柳島、柳島病院の院長と成った父は妾達をさがしましたが、秋田から北海道にわたり、又、野付牛に来たのでわからなかったのです。 また其の後も度々の話しにも女の人をむかいによこして○祖母は「何も不自由はさしてゐません。學校

        幸子、実父に逢う~わたしの祖母の物語⑧

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        • わたしの祖母の物語
          8本

        記事

          波乱の人生の初まり~わたしの祖母の物語④

          母の家に付いて妾しの見た物は、母のひざにの上で、乳房をふくんだ小さな子、そしてかたにもたれて不思議そうに妾しを見てゐる男の子、母に逢ったらすがりついて力一はいだきしめてもらへると思った。 妾しのだきつく所はどこにも有りませんでした。 母の家は日の出湯と云って浴場でした。 二階建の大きな家で、二階にわ母の●と(しうと)にあたる祖父母と、先妻の子(母は二度目でした)で利光と云ふ、あまり利効そうでない父の長男が居りました。 妾と祖父は下の六丈間でした。 朝食●がおわると、

          波乱の人生の初まり~わたしの祖母の物語④

          母に逢いたい~わたしの祖母の物語③

          やがて仕事も切上げ、皆それぞれの家に帰る事になりました。 楯身から母を嫁にほしいと云われました。 三年すぎても石坂よりはなんのたよりもなく、かはいそうに思った祖父母は妾しをつけて楯身の嫁にしたのです。 やがて父は母をつれて野付牛に帰る時、妾しを手放す事の出来ない祖母は、学校に行く迄は育てる事にして引取、父は母をつれて野付牛に帰って行きました。 妾が六才をむかへた時、野付牛の父から黒部旅館を建るのに棟梁として来てほしいと手紙がきて行く事に成りました。 三人に見送れ別れ

          母に逢いたい~わたしの祖母の物語③

          小樽にやってきた~わたしの祖母の物語②

          小樽におちついた祖父は、築港の仕事にかり、はたらく人が方々からあつめられて来ました。 其の人々の中に、野付牛(今の北見)から来た楯身友蔵と云ふ若者がゐました。 友蔵は、野付牛で〇玉と云ふ大きな工場の小分でした。 祖母と母は大ぜいの食事の仕たくをし、弟の武士は床屋に弟子入りをし、妾もすくすくと大きくなり、四才になったある日、突然妾しが見えなくなりました。 家は水産學校の下にありましたので、妾はいつも學校のまわりで遊んで居たのです。 母は食事もノドに通らず、くる日もくる

          小樽にやってきた~わたしの祖母の物語②

          幸子誕生~わたしの祖母の物語①

          明治廿年、秋田雄勝のかたいなかに、小野康太郎、母ノブとの中に生まれたノヱは、十七才の時大きな病院に看護婦見習としてはいりました。 其の時、東京からインターンとして来た石坂幸益とノヱは、恋仲になりました。 ノヱの父は武士の出でしたが、大工として東京の二ノ組にはたらきに行って居ました。 ノヱは、弟武士(タケシ)と母ノブの三人暮らしでした。 ノヱが十八才になった時、幸益は医者として世に出るため東京に勉強に行かなければならぬ事になったが、その時ノヱは妊娠していたのです。 院

          幸子誕生~わたしの祖母の物語①

          ネタを見つけた

          長らくウェブに関する仕事をしながら、自分には何かを発信するネタが無いと思っていましたが、数年前、実家を片付けた時に見つけた「祖母の物語」のことを思い出しました。 このお話は、明治後半に生まれた祖母による「自称『おしん』より壮絶な人生」を描いたもので、明治20年から昭和54年くらいまでのことが便箋約40枚に綴られています。祖母が自分で書いたものだそうです。 当時の女性の思いが詰まった、読みごたえのある「『おしん』ほどではないが結構つらかった人生」の話で、先程テキスト化が終わ

          ネタを見つけた

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          2年前に開設して実験してから何も触っていなかった… 動画は最近のお気に入り。

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