『サマーフィルムにのって』オーディオ・コメンタリーへの私的コメンタリー
はじめに
2021年にミニシアター系の映画館で公開されたこの『サマーフィルムにのって』のことは、評判が良かったらしいことがぼんやりと記憶にはあったが、それ以外になんの予備知識もなかった。
2024年3月のある日、レンタルDVD店の棚に見つけて借りてみたのだが、その時点でそこまで期待が大きかったわけでもない。
SF要素が含まれることは予告編などでも事前に告知されていたようだが、僕はDVDの再生を始めた時点でそのことは知らず、「高校の映画部を題材にした青春映画(演劇部が題材の『幕が上がる』のような)」だろうと思って見始めた。結果として僕は、それを知らなかったことで、よりこの作品を楽しめたと思う。「王道エンタメ映画」というカテゴリーがあるとするなら、その中ではこの数年で最も面白い作品だった。
そして、観終わった次の日、監督の松本壮史と主演の伊藤万理華によるオーディオ・コメンタリー(DVD特典)を聞いた。よほど気に入った作品でなければ、作品本編と同じ長さのそれを聞くようなことはないのだが、僕はこの作品をそれだけ気に入ったということになる。
収録された二人の対話では、いわゆる裏設定に類するようなことも多少は明かされているのだが、それよりも「『映画を撮る』ことを描いたこの映画が、どのように撮られたのか」ということ、コロナ禍での撮影の中断などもあった中で「若い俳優たちがどのような思いでいたのか」といったことが語られており、それもまた良質なドキュメンタリーに接しているような感覚を覚えた。
そんなこともあり、それらへの感想を少し書き残しておきたくなった。そこで、改めてDVDと、本作のシナリオが掲載された雑誌『シナリオ(2022年1月号)』を買い求めた。
記事本編の前に、僕がこの作品を観てどのような感想を持ったか(いわばファースト・インプレッション)を記しておく。以下は、ある映画レビューサイトへの僕自身の投稿である。(noteでは本名だが当該サイトではハンドルネーム)
オーディオコメンタリーへの私的コメンタリー
ここからは作品そのものとオーディオ・コメンタリーへの、私的なコメンタリー(正確には感想)となる。ある程度の長文になること、分析的な批評ではないことを初めにお断りしておく。また、作品の展開や結末に触れているので、未見の方はご注意いただきたい(というかこの映画未見でこの記事読もうって方はほぼ皆無と思うが、そういう方は公式サイトなどで本作の基本情報を仕入れてから読まれることをお勧めする)。
下記のチャプターやコメンタリーに付した数値はDVD再生時のタイムコードとなる。なお、引用した画像は、購入したDVDの画像キャプチャを解像度を落とした上で用いているが、問題がある場合はご指摘いただきたい。
●ハダシ(主人公)の登場[シーン2](0°01'19")
上が、主人公ハダシが初めてクロースアップで画面に映し出されるシーン。表情が不機嫌そうで、そのあと、松本の言うとおりかなり「猫背」で歩く姿が、正面からのミディアムロングショットで映される。キャメラに向かって直角に右に曲がると、その「猫背」はより明らかになる。この「猫背」のショットで、僕のハダシへの興味と好感は決定的になった。このシーンの前に映されていた「キラキラ恋愛映画」のワンシーンに反動するかたちで、物語が強く動き出すことを感じた。
一般に、主人公をどのように登場させるかは、作中に観客を引き込む重要な要素だが、ここまでのシナリオと映像のつなぎ(モンタージュ)は、その点で見事だったと思う。ちなみにコメンタリーによれば、本作は基本的に順撮りで、このシーンは撮影初日に撮ったらしい。
●「視線の映画」であること[シーン3](0°02'16")
花鈴(映画部が制作する「キラキラ映画」の監督)が屈託なくハダシに声をかけ手を振り去っていく。ト書きでは「通り過ぎる」と書かれているのみだが、キャメラはハダシの花鈴への視線を丁寧にカットを割った上で写し撮っている。カット割りとしては、上のように[ハダシの斜め後ろからのバストショット(視線は去っていく花鈴)]→[去っていく花鈴を見るハダシを後ろから撮ったウェストショット]→[ハダシのクロースアップ(視線は去っていく花鈴)]となる。3つめのショットは、1つめよりもだいぶハダシに寄っている(よく見ると同軸ではなく、たぶんキャメラを少し左に移動している)。
この数秒の、ハダシの視線を捉えたショットを見て僕は、この映画は「視線の映画」なのだと勝手に確信した。そしてそれは後で触れるように、おそらく間違ってはいなかったと思う。
少し余談になるが、英文学者の廣野由美子は、その著書『視線は人を殺すか』の中で、「視線とは、変化を引き起こすエネルギーを含んだ力学現象である」と述べているが、この映画には、まさにこうした「変化を引き起こすエネルギー」をもった「視線」が多く映し出されていたように思う。
ただし、実を言えばこの時点で僕は、本作をハダシと花鈴の二人を中心とするシスターフッド的な映画なのかなと予測したのだが、それはほぼ外れたことになる(そうした要素が皆無ではなかったが)。
●「秘密基地」とチャンバラ[シーン5-6](0°03'05")
「秘密基地」の中で、三人(ハダシ、その友人であるビート板とブルーハワイ)が並んで座っている中での、ハダシの脚の開き方が良い。この角度が、主人公の存在感に強度を与えている。
上の松本の発言は「下まぶたの下」あたりの表情筋の動きだと思うが、僕のDVDの再生環境では最初は気づかなかった。おそらく劇場のスクリーンで見れば印象に残ったのだろう。伊藤によれば「動かそうと思って動かしたのではなく、無意識に」だったらしい。
僕は、冒頭のハダシが猫背で部室を出ていくシーンから、この三人の空気を鮮やかに写し撮ったチャンバラ・シーンまでの約7分間の映像で、心を強くつかまれ、そしてこの作品が傑作であろうことを、ほぼ確信した。
タイトルイン。ここは、(具体的な対象の一点に向けた)「視線」というよりも、「表情」あるいは「まなざし(≒目の様子)」とよぶべきところだが、遠くを見つめながら、左に目線を動かしてまだ何かを見つめ続けているように見える。
なお、このタイトルインの直前に「凛太郎のタイムトラベル(現代への到着)」を表したシーンがあるのだが、僕はここではまだそのSF的設定を知らずにいた。「サマーフィルムにのって」というタイトルは、「映画(フィルム)を乗り物に喩えてい」るわけだが、つまりそれは「映画=タイムマシン(という乗り物)」という暗喩でもあるのだろう。その意味で、このタイトルを提示するタイミングも、ここしかないという絶妙な位置で見事にきまっている。
●追い追われる二人[シーン14-16](0°15'50")
古びた名画座でハダシと凛太郎(未来人であり、ハダシの相手役)が出会い、そこを飛び出した凛太郎をハダシが追いかけるシーン(シークエンス)。凛太郎が橋から川に飛び下り、ハダシも続いて飛び下りる。コメンタリーでも語られているが、ここのハダシの走り方が素晴らしかったし、その後のハダシの「飛び下り」のカット割りにも意表を突かれ、僕は笑って(軽く噴き出して)しまった。ああ、こういう走り方をする女子高生なら、こういう飛び下り方をしそうだなという連動があった(念のため言っておくと、コミックなシーンとして撮られているわけではないし、実際のところはスタントを使わずに撮るためという理由もあったのだとは思う)。
そしてこのシーン辺りから、俄然、映画が身体的にも物語的にも「運動」をはじめる。ちなみに、この「運動」という用語法は、著名な映画批評家でもある蓮實重彦からの援用になる。
●秘密基地で話す二人[シーン17](0°17'14")
1分超の、固定キャメラでの長回し。ハダシと凛太郎が、初めてきちんと言葉を交わすシーン。僕は「凛太郎=未来人」の設定を知らずに見ていたわけだが、観客の多くがこの辺りですでにそれに勘づいているだろうことを前提に、少しずつ匂わされている。
●ハダシのガッツポーズ[シーン18](0°21’13")
ハダシが、自分の映画のシナリオ(第2稿)を書きあげたことを喜び合う、いわゆる「ガッツポーズ」なのだが、ここの「腕の上げかた」についての松本と伊藤の話が面白かった。引用した画像は、ほぼ「腕が上がり切っ」た瞬間なのだが、コメンタリーにあるように「全然上がってい」ない。このあたりの細かい造形がハダシの存在へのリアリティにつながっている。
●ハダシの視線[シーン26]((0°27'13")
上で、英文学者の廣野由美子による「視線とは、変化を引き起こすエネルギーを含んだ力学現象である」という定義を紹介したが、ここのハダシの視線は確かに「変化を引き起こすエネルギー」に満ちているように思う。凛太郎は、この「視線」により、それまで頑なに拒んでいたハダシの映画への出演を承諾することになる。
●タイムマシン[シーン30](0°33'26")
物語としては、ここで凛太郎が「未来からのタイムトラベラー」であることが開示される。予備知識ゼロで見ていた僕としては、そうした「SF要素」のある映画だということに、ここで初めて気づくことになった。初対面の凛太郎が「ハダシ監督!」と声をあげたこと、序盤でビート板が読んでいた文庫本が『時をかける少女』であったことが、ここでようやくつながったことになる。
●初めての感情[シーン32](0°35'35")
上の引用画像は、ハダシが「凛太郎とビート板が、二人きりで何かを話しているところ」を遠目に見てしまった際の表情。松本と伊藤によれば、ここでハダシが自分の感情(凛太郎への恋心)を初めて認識し、戸惑っている表情になる。
それに続く、二人のロングショット(ちなみにここでハダシが構えているのは「椿三十郎」のポーズ)、その後のツーショット(二人の物理的な接近)へと続く、心理的な距離感の変化を表わすショットの連鎖も、自然で心地よい。
なお、ここで松本によって、シナリオ作成の初期段階では「ビート板とドク(もう一人の未来の男性)との恋愛」という設定も検討されていたらしいことが明かされる。ビート板は、この後の展開で「失恋」することになるのだが、その相手は劇中で明示されない。僕は最初の鑑賞時にはストレートに「凛太郎(異性)への恋心」と受け取っていたのだが、ネット上のレビューなどでは「ハダシ(同性)への恋心」との解釈もあるようだ。松本はその「答え」をコメンタリーでも明かしていないのだが、少なくても企画の初期段階では、ビート板の恋愛対象は「異性」だったことにはなる。
●二人の会話[シーン45](0°48'25")
画面としては、ローポジションのキャメラとアンダー気味の露出(あるいは照明)が、この二人の微妙な距離感を上手く映し出していたように思う。なお、上でも書いたように、初回の鑑賞時には僕は「ビート板も凛太郎への恋心を抱いており、それをお互いに打ち明けられずにいる」のだと解釈していたが、シナリオを読む限りでは、ここもどちらとも受け取れるようになっている。
●追い追われる二人(前半からの反転)、そして正面衝突[シーン56](0°59'35")
松本も語っているが、ここは、前半のハダシと凛太郎の「追い-追われる」を反転したシーンになっている。前半ではハダシが凛太郎を追い、昼光の下、二人は川に「落下」する。そしてハダシは「貴方で映画を撮らせて」と懇願する。後半のこのシーンでは、凛太郎がハダシを追い、ほの暗い夜の街灯の下、二人は「衝突」する。そして凛太郎が「(ハダシが監督として)映画を撮って欲しい」と懇願する。この対照の構造がとても美しい。
そして、「衝突」のシーンは、シナリオでは「抱きしめられる形(その後に転ぶ)」と書かれているのだが、実際の映画では二人が語っているように、かなりの強さでぶつかっている。俳優二人は結構痛かったようだが、映画の「(身体的・物語的)運動」という観点では、非常に重要なシーンだったと思う。仮にここが「(ややありがちなロマンティックコメディ映画のように)ソフトにぶつかって、抱きしめられるようになって、転ぶ」と演出されていれば、ここまでの「運動」を感じることはなかっただろう。僕にとって、この「衝突」はこの作品の中でも強く印象に残った瞬間である。
●二人の視線[シーン58](1°05'20")
冒頭の「ハダシの視線」を見て、僕はこの映画が「視線の映画だと確信した」と書いたが、松本が俳優たちへの手紙でその重要性を伝えていたらしく、本作がそれを認識した上で撮られていたことはほぼ確実だろう。もちろんそれらの「視線」は俳優の技量や監督の演出だけではなく、キャメラや照明といった撮影部の確かな仕事によって、このフィルムに見事に焼き付けられたということだ。
●ビート板の思い[シーン59](1°07'50")
松本の言う「どっちを見ているのか」というのは、カメラ(正確にはスマホ)ごしにビート板が「ハダシを見ているのか、凛太郎を見ているのか」が分からないということだ。答えは明かされないが、松本が敢えて「どちらを見ているか分からない」と語っていることは、ビート板の失恋の相手が誰なのかについて「観客に解釈を委ねている」というメッセージと受け取ってよいのだろう。
●部室での編集[シーン59](1°09'40")
ここの、ハダシ組と花鈴組が部室で編集作業を行うシーンは、2020年のおそらく3月、コロナ禍で撮影が中断に入る前日に撮られたとのこと。その当時の思いについて、伊藤が上のように語っていた。
2020年のその頃と言えば、コロナ禍の先行きが全く見えない時期であり、若い俳優たちにしてみれば、「いつ撮影が再開できるか分からない」「このまま何年も撮影出来ずに作品自体が無くなってしまうのではないか」といった不安もあっただろうことは想像に難くない。その現実の不安と、劇中の「未来では映画というものが無くなっている」という設定とのシンクロ、そうした不安がないまぜになり、若い俳優たちは相当に辛かったと語られている。そうしたリアルな感情も、このシーンのフィルムには焼き付いている。
●大活劇[シーン73](1°26'28")
上にあげた、上映会のステージ上にハダシが登場するシーン。照明のあて方も印象的で、演劇の舞台上でスポットライトがあたっているように撮られている。まさにここからの「活劇」の始まりを告げるのにふさわしいショットだった。
また、別の言い方をすれば、この映画は全編が見事な「活劇」でもあった。それは、単に時代劇の殺陣のシーンが含まれているだとか、俳優が川に飛び込んだり正面衝突しているからといった話では、もちろんない。
先に引用した蓮實重彦は、「映画は活劇でなければならない」という言い方をするが、僕がここでいう「活劇」も、蓮實の用法としてのそれである。ひどくシンプルに言うならば、蓮實による「活劇」とは、「ショットが変るときに、どきりとさせてくれ」る映画のことになる。
その意味でこの映画は、ここまでに上げた多くのシーン(正確にはショットの連鎖)で、僕をどきりとさせてくれた。
冒頭の「ハダシが花鈴を見る視線」のクロースアップ・ショット。「秘密基地から、草っ原でのチャンバラ」への場面転換。「凛太郎を追って、悲鳴をあげながら川に飛び下りるハダシ」。「夜の岬での正面衝突」。「スポットライトを浴びて(いるように)、ステージに登場するハダシ」などなど。多くのショット(の連鎖)に、僕の心は強く揺り動かされた。
この映画は「視線の映画」であると同時に見事な「活劇」でもあり、それ故に、傑作とよべる王道エンタメ作品になっているのだと僕は思っている。
もう一つ、別の視点からの感想を付け加えるならば、この映画作品を観た際には、僕は「恋愛の要素」をそれほど色濃くは感じなかったのだが、後日シナリオを読んだ際には、案外それが濃い目に感じられはした。セリフだけを読むとそのように感じられもするのだが、実際の映画では「メインプロット=ハダシの映画作り」「サブプロット=ハダシのほのかな恋」として構築され、時間配分としても「映画作り」に多くが割かれており、そのバランスも僕には心地よかった。
また、上に引用したコメンタリーでは、伊藤がラストの殺陣のシーンについて、「キャストのみんなの視線があったから、(よい芝居が)出来た」といったことを言っている。つまりこの作品は、「視線を写し撮った映画」であると同時に、「視線によって作られた映画」でもあったのかもしれない。
こうしたいくつもの点から、本作は素晴らしい青春映画であったと言えるし、僕の大好きな映画の一つとなった。本作の台詞にあったように、「大好きはいつまでもどこまでも残り続ける」、つまり僕の記憶から「この映画は、なくなんない」、そう言える映画だった。
(了)
*追記1:
本作については、以下の記事でも取り上げている。よろしければご笑覧いただきたい。
*追記2:
この記事を書き終わった後に、ネット上にある本媒体の記事や一般の方のレビューをいくつか拝読(および拝聴)した。レビューの中には業界関係者からのかなりの酷評もあり、公開時には一部で物議を醸していたらしいことも認識した。
下は、監督の松本壮史と脚本の三浦直之の対談記事。「ビート板の失恋相手」についても少し語っていて、かつ「まなざし」についても触れられている。
こちらも、別の媒体での松本と三浦の対談。作品についてよりも二人の関係性や創作の背景について語られている。
こちらも、同じく二人の対談。伊藤の「凄さ」について特に熱く語られている。
下は、製作関係者の対談記事。製作・興行サイドの意図やクリエイターからの伊藤への評価などにも触れられており興味深かった。
下は、伊藤万理華へのインタビュー。ハダシの造形などについて興味深い話がされている。
拝読したレビューの中では、次の記事がまた別の視点を与えてくれた。ハダシと花鈴の関係については、なるほどこういう視点もあるのだと気づかされた。
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