見出し画像

映画が「分からない」とは、どういうことか? ~「君たちはどう生きるか」を観て考えたこと

公開日のレイトショーで『君たちはどう生きるか』を観てきた。ただしこの記事は、この映画についての批評や感想ではない。

ツイッターでこの映画の評判を眺めていて、「(この映画が)分からなかった」と投稿している人がまあまあ多いような気がして、はてさて、そもそも映画が「分からない」とはどういうことなのだろうと考えてみた。

おそらくその「分からない」には、いくつかのタイプがある。代表的なものは「物語自体が分からない」場合であろうが、まずはそれ以外の「分からなさ」について、あらかじめ触れておく。


1.「良さが分からない」と「言いたいことが分からない」

一つ目は「この映画の良さが分からない」と語られる場合。これはシンプルに「評価」であって、「(自分にとっては)良い映画ではなかった」ということを婉曲に言っているということだろう。

二つ目は、「(作者の)言いたいことが分からない」と語られる場合。ここでの「(作者の)言いたいこと」とは、いわゆるメッセージ、特に倫理的なメッセージ(あるいは蓮實重彦風に言えば「道徳的価値判断」)のことだろう。ティピカルなものとしては「人生には愛が大切だ」や「戦争反対!」などだが、そうした明快な「メッセージ」が映画から読み取れない場合に言われることが多いように思う。

『君たちはどう生きるか』について言えば、この「作者(=宮崎駿監督)の言いたいことが分からなかった」という感想も一定数は見受けられたと思う。

ちなみに私としては、映画などの創作物にはそうした「メッセージ」が特に必要だとは思っていない(もちろんあってもよい)し、殊にその「メッセージが正しく立派であること」と「作品のクオリティ」には直接の関係性はないと考えている。であるから、「作者の言いたいことが分からない」ことは映画鑑賞における問題だとは感じない。ただし「映画を観る際に重要なこと=作者のメッセージを受け取ること」との立場の方も、もちろん否定はしない。


2.「物語そのものが分からない」


さて、ここからが本題の「物語そのものが分からない」場合である。

「物語」という用語もまあまあ定義が難しいのだが、英語では「ストーリー」「プロット」「ナラティブ」など、いくつかの近似の用語があり、それぞれ「物語」「筋立て」などと訳されたりする。

厳密な意味はそれぞれ異なり、論者やその依って立つ理論によって定義が異なるようでもあるが、私の理解している限りで乱暴に整理するならば、
【ストーリー】:「物語」の大まかな流れ(時系列)。登場人物と複数の出来事によって構成される。時間的な前後関係。「年表のようなもの」と表されることもある。
【プロット】:複数の出来事が「原因」と「結果」で結びつけられたもの。複数の出来事の因果関係のつながり。「原因」には、登場人物の「動機」も含まれる。
【ナラティブ】:ストーリーが、一定の形式をもって「語られたもの(発話された/記述された言語)」。
といったところだろうか。

ちなみに、文学研究の領域では「物語論(ナラトロジー)」という分野があり、まさに「物語を研究す」る分野なので、その意味では「物語=ナラティブ」と定義するのが正しくもあるのだろうけれど、本稿では、一般に多く使われる「ストーリー」と「プロット」を中心に「物語の分からなさ」を考察する。(ストーリーとプロットはナラティブを構成する要素であるともいえるので、おそらくこのアプローチはそんなに間違っていないようには思う。)

(前略)「物語とは何なのか」「物語とはどのように出来上がっているのか」など、物語の背後にある設計図を論じてきた理論が、本書で扱う物語論(ナラトロジー)である。

『物語論 基礎と応用』橋本陽介(講談社選書メチエ)P.6

①ストーリー(前後関係)が分からない

さて、「映画(の物語)が分からなくなる」パターンとして、まずは表層的というか、身もふたもないパターンからあげていく。私自身も時折あるのだが、鑑賞中に「登場人物の識別が付かずに、ストーリーが追えなくなる」場合である。これは、(日本人である私が)「洋画」を観る場合に多く、「邦画」では起こりにくいと感じられるが、この原因は、人間の脳が成長に従って獲得する「顔認識モデル」にあり、認知心理学では「人種効果(other-race/cross-race effect」と呼ばれるらしい。

実は「顔」を見分ける能力も、言語の聴き取りと同様に生後1年までに決まる。「これを人種効果と呼びます」と説明するのは、顔と表情の研究の第一人者である中央大学教授・山口真美氏だ。映画で外国人の登場人物が見分けられず混乱する、といったことは、この人種効果によるものだ。「日本人であれば、基本的に日本人の顔をたくさん見て育ちます。それをもとに、日本人を基準にした顔認識空間が脳内につくられるのです(図参照)。顔認識空間の中心には日本人の顔が密集し、その外側にはあまり接点のない白人や黒人の顔が分布する。中心に近ければ近いほど、きめ細かく顔を認識し、分類することが可能になります」(山口氏)

「なぜ、外国人の顔は見分けにくいのか」
https://www.works-i.com/works/series/jintai/detail003.html

単なる「認知」の問題であり表層的な現象ではあるのだが、これにより結果として「映画(の物語)がよく分からなかった」ということも、実際に起こりえる。

次にあげるのは、作者の作劇技法による「分からなさ」とも言える、「時制が混乱して分からなくなる」場合である。大ヒットした新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』(2016)は、(タイムスリップ的な)時制の交錯と人格の入れ替わりという複雑なストーリー構造から、「分からない」という声もまあまあ多かったと記憶している。Googleで「君の名は 分からない」で検索すると、現在でも多くの「解説サイト」がヒットする。

また、SFやファンタジー要素を前提としない一般のリアリズム(的な)映画でも、作者(監督)の意図で複雑な時制表現をすることが、結果として観客の「分からなさ」を生み出すこともある。近作ではあまり思い浮かばないのだが、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(1994)あたりがその代表だろうか。(ただし、タランティーノ監督作品を観て「分からない」と不満を言っている人はあまり多くないように思うが、それは「タランティーノの映画とはこういうものだ」という通念の存在や、「映画の文法をぶっ壊している点が痛快」という批評性ゆえだと思われる。)

②プロット(因果関係)が分からない

次は、(プロットのレベルの)「(出来事の)因果関係が分からない」という場合。おそらく、『君たちはどう生きるか』に対して「分からなかった」という感想を持っている方の多くは、このパターンのように思う。

簡単に言えば、「なぜ、こうなったの?」「(登場人物は)なぜ、この行動をしたの?」という問いに対する「『答え』が分からなかった」ということだ。
映画のネタバレを控えるために伏字を用いるが、『君たちはどう生きるか』を例として言えば、「なぜ、登場人物の○○は、映画の終盤で、あの場所に横たわっていたのか?」、「なぜ、主人公の○○は、ラストシーンで、あのような行動を選択したのか?」という問いになる。

抽象度を高めて言うならば、「あの場面の、原因(あるいは背景)はなに?」「あの人物の、あの行動の動機はなに?」といったことだ。

そうした「問い」への「答え」が、映画を観ただけでは分からなかった場合に、鑑賞者は「この映画は分からなかった」という言葉を発するように思う。

③シンボル(意味するもの)が分からない

三つ目には、映画に「登場するもの(あるいは行動)」の「意味」が分からない場合がある。映画に登場するものが、「何かを象徴しているように思えるのだけれど、それが何か分からない」といった場合だ。

一般に、そのような要素の多い映画は「難解だ」という言葉で形容されることが多いが、その「難解さ」は必ずしもネガティブに語られるわけでなく、「高尚/ハイブローな映画」や「謎解きの楽しみを与えてくれる映画」としてポジティブに評価されることも多い。(近作で言えばトッド・フィールド監督の『TAR』(2022)は、まさにそのように評価されていたように思う。)

『君たちはどう生きるか』について言えば、(ネタバレにならないように言えば)ラストに出てくる「象徴的な(意味ありげな)数字」などである。(ちなみに、その「数字」については、ネット上でそれらしき「答え」を見つけることができる。)

観る側としては、そうした「意味ありげなもの」はどうしても気になってしまうのだが、ただし一方、少なくとも「ストーリーを追う」という点に関しては、その「数字の意味」が分からなくても大きな障害にはならない。であるから、こうした点の「分からなさ」が、ことさらにネガティブな感想として現れることは多くないように思われる。

ちなみに、「難解な映画」の代表とも言える、スタンリー・キューブリック監督の名作『2001年 宇宙の旅』(1968)の「分からなさ=難解さ」は、上述のようなシンボルが分からないものとはまた別のレベルのものであり、キューブリックが意図的に説明を省いたことに起因しているように思う。映画冒頭の「骨」や「モノリス」など、「意味ありげなもの/意味ありげなシーン」のオンパレードのような映画ではあるが、強いて本稿の分類で分けるなら、その分からなさは、②の「因果関係が分からない」に分類されるものだろう。(Wikipediaにもそのあたりの経緯が「難解とされるラストシーンの解釈」として記載されている。)

なお、私は『君たちはどう生きるか』の「難解さ」についても、このキューブリック監督と同様に宮崎駿監督が、敢えて意図的に「説明を省いた」可能性は結構高いだろうと思っている。

3.なぜ私たちは「分かりたい」のか

さて、そもそもなぜ私たちは映画を観て「分からない」と感じた場合に、ネガティブに感じてしまうのか。言い方を変えれば、なぜ「分かりたい」と欲するのか。

これは、端的に言えば、人間の脳が「そのようにできているから」であるらしい。
ある物語論(ナラトロジー)の研究者が一般向けに書いた著書では、「人間の脳は、『分かる』と感じることによって、快感が生まれるようにできている」と書かれているが、逆を言えば、「分からない」ことは、人間の脳にとって「不快」な状態であるということだ。

人間とは、世のなかのできごとの原因や他人の言動の理由がわからないと、落ち着かない生きもののようです。

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子(ちくまプリマー新書)P.53

「わかる」というと知性の問題だと思うかもしれません。しかし、このように考えてきた結果、「わかる」と思う気持ちは感情以外のなにものでもないということが見えてきました。教育心理学者・山鳥重は、つぎのように書いています。
〈わかる、というのは秩序を生む心の働きです。秩序が生まれると、心はわかった、という信号を出してくれます。つまり、わかったという感情です。その信号が出ると、心に快感、落ち着きが生まれます〉

『人はなぜ物語を求めるのか』千野帽子(ちくまプリマー新書)P.55

このあたりは、いわゆる「陰謀論」が、特に社会不安が大きくなると蔓延する理由の定説であろうが、本稿の本題ではないので深入りはしない。(いちおう申し添えれば、この文脈において「ネガティブ・ケイパビリティ=容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」の重要さが語られることには全面的に同意する。仮に『君たちはどう生きるか』の「難解さ」が意図的な省略によるものだとしたら、それは我々のネガティブ・ケイパビリティを問うているのかもしれない。)

人は無意味さに耐えられず、答えのない問題を憎む。ただし求めているのは必ずしも解決ではなく、良い答えである。良い答えとは探偵小説の如く因果関係を良く説明する物語であり、正誤は問われない。

『現代思想 2021 vol49-6』「文字が構築する壮大な筋書き/陰謀(プロット)」仁木稔(青土社)P.163

ともあれ、どうしても人間というものは映画に限らず何にでも「分かりやすい物語=因果関係」を求めてしまうものらしいのだが、しかし一方「分からない映画」は「つまらない映画」では決してない。
もちろん、『君たちはどう生きるか』についても「分からなかった、けど、面白かった!」という感想は、多数見られた。

最後に蛇足として付け足すならば、この映画に対する私自身の感想も、「分からないところも多かったけど、面白かった!」である。
そして、もうひとつ付け足すならば、「まるで、宮崎駿監督の『生前葬』のような映画だった」といったアナロジカルな感想を持ったのだが、さきにあげた「映画のラストに出てきた数字の意味」から類推するに、あながち間違った解釈でもないような気はしているが、いかがであろうか。

(了)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?