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読んだり、書いたり、考えたりの生活

堀正岳著「知的生活の設計」をきっかけに、梅棹忠夫著「知的生産の技術」と渡部昇一著「知的生活の方法」を読んだ。P.G.ハマトン著「知的生活」は内容の密度に圧倒されて残念ながら今回は断念した。

「知的生産の技術」も「知的生活の方法」も著者の知的活動に関する心構えや実践についての随筆であり、いわゆる論文の書き方や文章の書き方のノウハウ本とは異なる。ここでの知的活動とは、具体的には文章を読んだり、書いたりすることを指している。

出版年は「知的生産の技術」が1969年、「知的生活の方法」が1976年であり、インターネットが普及する前という点で時代背景が大きく異なる。例えば、梅棹氏はタイプライターについて詳しく語っていたり、渡部氏はクーラーの素晴らしさに言及しており、現代からすると古い話題も含まれている。

しかしながら、個人が文章を書くことが当時と比べてより身近で一般的な活動になっている現代において、彼らの考え方はむしろ重要度を増している。彼らの知的活動の実際的な雰囲気が伝わってくる点で参考にできるところが多い。

2つの本の内容を比較しながら読むと、似たような見解や異なる意見が観察できて面白かった。今回はその中から2つの話題を取り上げる。

新聞について

情報を得る主要な手段として、当時の新聞や雑誌は存在感は濃く、影響力は今よりも大きかったと想像できる。そんな新聞について、著者らは異なる見解を示している。

梅棹氏は、新聞記事について「世界中の有能な記者たちが、金と時間とエネルギーをかけてしらべあげた情報集なのだから、まるで知識の宝庫のようなものである。」と書いている。そして、このような新聞記事のきりぬきを活用するための方法について考察している。

一方、渡部氏は「情報収集といって新聞・雑誌の切りぬきをやるが、それをやり出すと、新聞のために毎朝一時間以上もとられてしまう。ヒルティやギッシングのような読書術にすぐれ、知的生産の豊かな人たちは、単に新聞を読むことさえ怖れていた。」と書いている。決して新聞記事の内容に価値がないといっているわけではないが、それよりも本として所有することの重要性を強調している。

このような2つの見解は、新聞から得られる情報に何を求めているのかによって違ってくるのかもしれない。インターネットが普及し、情報が氾濫している現在では、新聞の存在感は薄くなっている。しかし、今風に読み替えるなら、SNSや動画の情報との距離感をどのように持つか、という話題になるだろう。情報リテラシーと知的生活の密接な関係についてはまたどこかで考えたい。

ちなみに、この話題で面白かったのは、新聞にまつわる彼らの思い出話である。梅棹氏は幼少期ワクワクとした気持ちや感動について語り、渡部氏は父親との哀愁漂う話を述べている。このような情緒と彼らの見解がどのような因果で結ばれているのか定かではないが、興味深い。

書斎について

昨今の社会情勢から在宅で仕事をする機会も多くなっている。生産性の高いオフィス空間を考えるのと同じくらい、自宅で知的活動を行うための用意が大切だと感じる。両氏とも書斎の重要性を指摘しており、空間設計について述べている。

梅棹氏は機能に合わせて書斎の空間を設計することが大事であるとし、次のように書いている。「知的生産のために必要な部分空間は、四種類となる。仕事場と、「事務所」と、資料庫と、材料置き場である。…(中略)…問題は、ひろさではなくて、空間の機能分化である。」この指摘は、整理や事務の技法を考える文脈で出ており、このようなことを考えるのは能率の問題ではなく、生活の「秩序としずけさ」がほしいからであると語っている。彼は知的活動を水の流れに喩え、精神の層流状態を確保する技術と表現している。

渡部氏は、本の置き場の話題から私的な図書館を所有することについて語り、その流れで書斎について語っている。印象的なのは、学者仲間との会話の中で、一人の学者が仕事場として家族と住む部屋とは別の部屋を同じマンションに借りているというくだりである。程度は違えど機能毎に空間を分けて考える点で梅棹氏の話と繋がるように思える。また、書斎の構想については、図面を示しながら敷地広さに沿って3種類の提案をおこなっており、かなりの分量を割いている。

生活する空間に衣食住に加えて知的活動を行うための場所を明示的に用意するという点で書斎があることの意味は大きい。しかし、実際には立地や家賃のことを考えると、ついつい優先順位が下がってしまうものでもある。渡部氏は、子供の勉強部屋よりも親の勉強部屋を先にした方がよいと述べている。さらに、理想的な知的空間を所有している自分を夢として描き続けることの重要性も指摘している。

コンピューターやインターネットが手軽に利用できるようになったことで、私たちが情報を保存するための場所も活用する手段もかなり広がっている。クラウドのストレージには大量のテキストや写真・動画を情報として置いておける。しかし、それを知的活動に活かそうとするときには物質的に変換する必要がある。ディスプレイに表示することも一種の変換だとみなせる。残念ながら、まだ人類はデジタル情報をそのデータのまま解釈して扱うことができない。だとすれば、それらを扱うための物理的な空間についても丁寧に考える必要がある。

長くなったが、私はこの2冊を読みながら、自分自身の知的活動に対する不誠実さをつくづく痛感した。喩えるなら、デタラメな調理道具でレシピを見ずに料理を作ったり、栄養を取らず練習もせずにスポーツ競技に参加したりといったものである。知的活動の方法において客観的な正解はないかもしれないが、少なくとも真摯に取り組まなければいけないと改めて感じた。自戒したところで、今回はこの辺りで筆を置くとする。




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