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すこしふしぎの物語

結論

この文章の要旨は、磯光雄監督の新作が楽しみである。ということだけである。それ以外は蛇足である。

地球外少年少女」という作品が1月28日から公開される。それに関連して磯監督のインタビューが公開された。

全編にわたって、非常に興味深い内容だが、私は次の2点が特に印象に残った。

1. SFの黎明期(19世紀後半)は、科学技術の新しいものが目の前にあるのに物語が存在しなかった、まだ誰も「起承転結」の「起」しか見たことがなかった。科学技術の物語の「起承転結」が出揃ったのは20世紀末であり、そこからようやく総括した創作の物語が語れるようになった。

2.昨今の日本のアニメ界隈では、科学技術がダサいと言われたり、宇宙というテーマはオワコンと言われやすい位置にある。

ここから先は、これらの話題について個人的な意見を述べるだけである。以降に結論はない。

物語としてのSF、道具化していくSF

1の話題は、磯監督がSFの黎明期に状況が似てるという文脈で指摘されたもので、近代化によって神々の物語が科学技術の物語へと置き換わっていく流れの説明として腑に落ちるものであった。同時に、SFは物語としてその役割を果たしつつあるのではないかと感じた。ある種、近代における神話になりつつあるのではないか、ということである。神話であれば、それはひとつの教養として扱われることもあるのではないか。そして、教養としてのSFは道具的な役割も担うことになる。

ここで言いたいことは2つ、「SFがある種の道具としてこなれてきており、我々はそれを日常的に活用するようになっている」こと、「SFの次の物語が必要なのではないか?」ということである。

前者は、昨今の風潮からすれば明らかであるかもしれない。私の指導教員である稲見教授は著書「スーパーヒューマン誕生!」において、SFは研究者にとって共通言語であると述べている。また、暦本教授も著書「妄想する頭 思考する手」において、SF作家とエンジニアの妄想は一体化していると書いている。少なくとも、私の研究界隈では似たようなマインドを持つ者は多い。他にも、宮本ら編著の「SFプロトタイピング」など、ビジネス界に向けたメッセージも少なくない。そもそも、最初に挙げたインタビュー記事においてもWIRED Sci-Fiプロトタイピング研究所というプロジェクトを紹介している。このように、SFを思考の道具として活用する試みは今後ますます取り組まれるだろう。おそらくはデザイン思考的な立ち位置になるのかもしれない。

では、物語としてのSFはどうなのか?後者については、今後もSFと呼ばれるものは創作されるだろうし、楽しみである。しかし、SF黎明期と対比するようになにかしらの枠組みが必要な気配を感じる。きっとそれは、科学技術に託した夢や希望、啓蒙や畏怖に対するある種の回答が揃い始めているからである。また、フィクションを容易く超えるような未曾有のパンデミックや自然災害、社会問題に対して科学技術だけでは対処できないことを実感しつつあるからだと思う。では、その物語はどんなものなのか?それは現時点では私は想像できない。妄想力不足かもしれない。

トレンドと好きとの距離感

2は、1と比べたらカジュアルな話題である。エンターテイメント業界には流行り廃りもあるだろうし、商業作品として成立させるための苦労も色々とあるのだろうと窺える。干支一回り違う世代を想像したとき、趣味趣向が異なるのは当然である。一方で、アニメ業界では、SFがダサいといわれるのかと自身の感覚とのギャップに驚いた。

今、私の周囲を観測してみると、VRやメタバースはビジネスの機運も高まっているし、ロボットやAIの進化も目覚ましく、アツい状況なのだと思う。一方で、それは現実であって、物語やエンターテイメントとしての魅力ではないのかもしれない。

音楽で喩えるなら、きっと今のトレンドはロックじゃなくて、私や私の上の世代が痺れたようなロックサウンドは過去のもののように扱われているということなのかもしれない。だからといって、ロックの良さは色褪せないし、その系譜の先に今の音楽もあるわけで、何も悲観することはない。

記事の後半ではムードの潮目についても触れているし、磯監督が宇宙をテーマにしたことについて語っていている。このあたりの話は映画を観た後であらためて考えてみたいと思った。

さて、そろそろまとまりが皆無なので、今回はこのあたりで筆を置くことにする。


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