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同じ思考で同じ感情をなぞる癖

丹後半島を一周している。この後は、日本海に沿って西に進むことにした。私個人の勝手なイメージで、日本海というと太平洋と比べて、暗いとか、漁業とか、寒いとか、狭いとか、荒々しいとか、地味だとかいうイメージが強かった。つまり太平洋よりも景観として美しくないのだと思っていた。それは恐らく私が中学生のときの宿泊実習で福井の若狭を訪れ、雨模様の中、漁船に乗った経験が影響しているのだと思う。

慣れ親しんだ内地を西に進んでいけば、頭はいつもと同じ思考をなぞり、心はいつもと同じ感情をなぞることになる。つまり、私は安心で安全を感じ、快適さを得る。しかしこれはある種の罠であり、旅をしている人がしばしば陥る問題だ。

旅を経験したことのある人は、一度や二度は身に覚えがあると思う。ホステルや交通手段の利便性、快適さなどを考慮した結果、同じような街に行き、同じようなカフェに行き、同じような食べ物を食べ、同じような生活習慣をおくってしまう。冷静になって見つめてみると、結局「普段の生活」をただ別の場所で行っているというだけなのだと気づく。

「普段の生活」の延長は普段の思考パターンを繰り返す。普段の思考は、普段と同じような感情を繰り返す。旅はマンネリ化し、新鮮味はなくなる。感覚が鈍くなる。大きな感動に出逢えなくなる。


私自身、面白い旅もつまらない旅も経験した。それを今冷静に見つめると、頭で動くか、感覚に従うかの違いだったと思う。

感覚は恐れ、焦り、不安などの緊張で鈍くなる。楽に浸かりきった生活、惰性的な習慣でも鈍くなる。

私が旅行をあまり好まないのはこの点にある。観光地を巡り、ご当地の美味しいものを食べるのが、旅行の主な形だ。観光地に行くのは、その土地に赴いたら、その土地で有名なものを見なければ損だという、頭での思考の結果なのではないか。

旅は違う。感覚で動く。こっちに行った方がいいとか、こうするのが自然だという感覚になる。何かに導かれているような感覚になる。その先に感動や出会いがある。普段の思考からは生まれないような、新しい感情が芽生える。


その感覚は、自然のエネルギーにしっかり触れること、身体を動かすこと、健康な食事をとること、普段から気づくこと、自分をよく観察していることなんかから磨かれていくのだと思う。これはあくまでも私の実体験なのだけれど、今実際に旅をしていて、まさにこれが当てはまっているからだ。


丹後半島の一周は、頭は「行かなくてもいい」と言った。なぜなら、曇天雨天続きの今、青く綺麗な海は見れないからだ。しかし、なぜだか行くことが自然であるような気がした。

運転していると、浦嶋神社の看板が目に飛び込んできた。そしたら次はそこに行くべきであるような気持ちになった。

私は神社に行き、抱えていた罪を告白した。果たして神社ではそうしたお祈りは正しい形ではないのかもしれないけれど、そうするためにここに来たのだと思った。

この先の旅はどこに行くのか、まだ分からない。しかし、旅は自分の想像を超えて面白くなっていく予感しかない。

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