目白村だより25(フランスの想い出⑦) 


フランシスは1971年に一度だけ来日。その記念盤。


フランシス・レイと、直接会ったことはない。会う予定は、あったけれど、彼が病気入院となり、叶わなかった。きっかけは、作詞家のボリス・バーグマンである。私がオランピア公演の後、フランス・ショービズのゴタゴタに、疲れ切っていたときに、ボリスから、日本の演歌のアルバムを、出さないか?と言われた事に始まる。
演歌…もともと私は、ジャズにも、シャンソンにも、カンツォーネにも、演歌との共通項を感じていた。ボリスが、書いた演歌の訳詞は、5曲あったが、異訳とはいっても、あまりに飛び過ぎていて、感情移入が難しく数曲は、おくらになった。(一部は「巴里歌謡」で、聴くことか出来る)
何故演歌は、シャンソンに重なるのか?…それは、日仏とも共通する、人生ペシミズムである。
その事の例としても、フランスの作家に、一曲オリジナルを書いて貰おうということになった。私は、ミッシェル・ルグランの名を挙げたが、ボリスが、可能だけれど性格が難しく、書いて貰えても、何か面倒くさい事が、絶対起こるからと躊躇した。私は、この小津の(東京物語)までをも、フィルムで持っている、超日本おたくに、ではこのアルバムに誰が、相応しいかを尋ねた。「フランシス・レイ」彼が、即座に答え、私も一瞬で、理解した。どんな曲が欲しいのか?と聞かれて、私は、演歌のように哀しくて、こてこてのラブソングを!とリクエストした。
しかし、曲は出来なかった。フランシスが、その後、持病の心臓病が悪化して、スイスの病院で、生きるか死ぬかの大手術をしたのである。 
レコーディングは、始めは順調だった。アレンジャーは、ジャン=ジャックという、ボリスがお勧めの男。この、ガボン生まれのアーティストは、確かに才能があったが、アフリカ的ルーズさ+フランス的いい加減さで、最後まで、私を振り回した。 (この話は、長くなるので、ここでは省く)
フランシスの曲は、幻になるだろうと思っていた。それが動いたのは、2011年3月11日の、大震災から3カ月ほどたってからの夏である。ボリスから連絡がありLOVESONGではなくなってしまったけど、音源を送るという。
私は、大手術をしたフランシスからまさか曲が届くとは、思わなかった。
私が(明日の時代)と日本題をつけたその曲は、ボリスが仏詞を書いた。内容は、平和な大地を、津波が全部飲み込んだけれど、人々はまたそこから新しい暮らしを始めると言う、日本への応援歌である。フランシスらしい、素晴らしいメロディーがつけらていた。
音源には、息も苦しそうな声で、フランシスが、歌を入れてくれていた。私は思わず目を潤ませた。(つづく)


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