Tomuya

歌手、プロデューサー、作家、日仏映画研究家。日本での活動を経て1992年パリで歌手活動…

Tomuya

歌手、プロデューサー、作家、日仏映画研究家。日本での活動を経て1992年パリで歌手活動を開始。現在、代官山晴れたら空に豆まいて、四谷ウナカンツォーネなどで定期的にライブを行う。著書に「日仏映画往来」松本工房 2017年、「パリの『赤いバラ』といわれた女」さくら舎 2019年など。

最近の記事

目白村だより34(意に染まない音①)

音楽、文学、映画…その幅広さで、無敵の文化批評家小沼純一さんと、映画と音楽をテーマにライブトークをする。 トークだけは、あまり経験していないが、今年は、11月26日から三週間パリ日本文化会館のイヴェントでも、トークだけの日がある。普段のLIVEでのMCでは、どうしても語り尽くせない話をしてみたい。 今回の、CINEMA PARFAIT…二人共甘辛党だし、シネマパフェという名前が気に入っている。 打ち合わせで、病院のMRI検査のときのBGMの話になった。私も毎回、思っていたこと

    • 目白村だより33(映画主題曲への誘い②)

      アカデミー視覚効果賞を獲ったということで、「ゴジラ−1.0」を見た。沢山のゴジラ映画を、見てきたが、いつも戻るのは、最初の作品である。1954年東宝作品は、本田猪四郎が監督。脚本は村田武雄と本田の協同である。 私はこの映画を、リバイバルで、1960年以降に見ているのだが、モスラや、大魔神や、様々な特撮映画が、混ざってしまい、後年見直すまで残っていた記憶は、伊福部昭のメロディだけだった。逆にそれほど、何度も繰り返される野太いメロディが、強烈だったのだ。私のなかでは、あのメロディ

      • 目白村だより32(映画主題曲への誘い①)

        11月にパリで、日仏映画往来をテーマにした、ポスター展と公演等のイベントを催す事になっている。 それもあって、LIVEは、映画主題歌に重きを、おくのだが、改めて自分のレパートリーを、見直す機会でもある。 今回3月6日のLIVE「パリは霧にぬれて」で、ルネ・クレマンの映画音楽特集をやるに当って、「禁じられた遊び」を再見。 この映画を、初めて見たのは、子どもの頃、麻布十番の映画館だったが、記憶がうすく、はっきりしているのはその後、淀川長治「日曜洋画劇場」(テレ朝)である。 その後

        • 目白村だより31(パリは霧にぬれて)

          昨年は、九月から十二月まで 毎月テーマを変えたLIVEを、敢行したが、我ながら、新曲ばかりで、はらはらしどうしであった。 しかし、過ぎてみて、やはり自分が得た事は、大きい。 それは、あらためてフレンチ・ジャズの系譜を、歌って確認してみて、トレネ、レイ、ジャンゴ、サルバドール…と、並べた天才たちの仕事が、体系的に、自分に見えたことであった。 特に、ジャンゴは歌詞のないものばかり。それに日本語をつける大実験であったが、分かってくれた人たちがいた事が、嬉しかった。来年、もう少し掘り

        目白村だより34(意に染まない音①)

          目白村だより30(長嶺ヤス子の猫)

          長嶺ヤス子さんという強烈な、フラメンコパフォーマーがいる。 50年も前の話しで、恐縮だが、私はメージャーデヴューのレコーディング前で、発声の笠井幹男先生の六本木のボイストレーニングに通っていた。 笠井先生は、芸能界では、知らない人はいない声のフィクサー。ここは、30分きざみで、有名プロダクションから送られてくるこれからのアイドルや、もう既に茶の間で騒がれる流行歌手や俳優が、次から次と現れる、ちょっと華やいだ場所でもある。マネージャーは同伴禁止。他に歌手に混じって多くの有名女優

          目白村だより30(長嶺ヤス子の猫)

          目白村だより29(アンリ・サルヴァドール)

          今年の6月に、広大なペールラシェーズ墓地で、バルビゾン派の画家の墓を探した。炎天下、血圧あがりまくりの強行軍で、今でも、あの時の、フラフラ感がよみがえる。いい加減にしろ、といいたくなる判りにくい地図を、片手に握りしめながら、パラソルをさして3時間歩いた地獄のトラウマである。 その時、迷路のような道で、おおきな目安になったのが、ピアフとアンリの墓であった。観光客が、いつもたまっているその墓は、広い道で平坦だから、直ぐわかる。ピアフの墓の前、道路側にアンリ・サルヴァドールの墓があ

          目白村だより29(アンリ・サルヴァドール)

          目白村だより28(ジャンゴ・ラインハルト

          ジャンゴ・ラインハルト(1910~1953)の事を、知ったのは、薮内久さんからである。薮内さんは、お父さんがリヨンの公使を戦前から努められて、その関係でフランスに育ち、戦前のSPから戦後のLPまで、多分日本で一番レコードを持っていた人だ。彼の映画愛、シャンソン愛は、今でも語り草で、私も少しお手伝いした本「シャンソンのアーティストたち」は、マニアのバイブルとまでいわれている。その薮内さんは、ブラッサンスとティノ・ロッシそしてジャンゴ・ラインハルトが、特別に好きだった。 私は、フ

          目白村だより28(ジャンゴ・ラインハルト

          目白村だより27(フランスの想い出⑨)

          私は、来年に向けて(フレンチアイコン)のムック本の制作とそのオブジェのフランスでの展覧会を準備中だが、もちろん、フランシス・レイはそのアイコン中でも特異な存在として登場する。 フランシスが、いかに日本で大衆性があるか、それは彼のライセンス商品を見ると一目瞭然である。音楽家で、日本がそのライセンスを、獲得したくなるほど、知名度の高い人はそれほどいない。フランス人では、ポール・モーリアとリチャード・クレイダーマン、それに、少し規模が小さいのだが、フランシスの三人くらいだ。 クレイ

          目白村だより27(フランスの想い出⑨)

          目白村だより26(フランスの想い出⑧)

          フランシスから贈られた「明日の時代」は、日本語とフランス語で録音したのだが、レコーディングの時に、問題が起こった。ジャン=ジャックが、洪水のSEを、バックに入れたが、それがあまりにも生々しく、歌おうとすると、気持ち悪くなってしまい歌えない。こんな体験は、初めてであった。 結局、そのSEを取って、録音されたのだが、この曲は、アルバム「巴里歌謡」とのコンセプトとは、あまりにかけ離れた重みをもっていた。だから、まだ未発表のままである。LIVEでは、数回歌ったが、アルバムには入れなか

          目白村だより26(フランスの想い出⑧)

          目白村だより25(フランスの想い出⑦) 

          フランシス・レイと、直接会ったことはない。会う予定は、あったけれど、彼が病気入院となり、叶わなかった。きっかけは、作詞家のボリス・バーグマンである。私がオランピア公演の後、フランス・ショービズのゴタゴタに、疲れ切っていたときに、ボリスから、日本の演歌のアルバムを、出さないか?と言われた事に始まる。 演歌…もともと私は、ジャズにも、シャンソンにも、カンツォーネにも、演歌との共通項を感じていた。ボリスが、書いた演歌の訳詞は、5曲あったが、異訳とはいっても、あまりに飛び過ぎていて、

          目白村だより25(フランスの想い出⑦) 

          目白村だより24(フランスの想い出⑥)

          永年音楽に関わり、歌を歌って来ていたのに、ここずっとは、たまにLIVEをするスタンスだった。東京のシャンソニエやジャズバーは、対面接待をするところがほとんどで、自分が老ホストになったような気がして、私にはハードルが高過ぎる。歌うことと対面接待は、真逆な事で、不器用な私には、客と酒を飲み冗談を言い、その間ステージで歌うなんて芸当はとても無理。コロナの影響も大きかったのだが、振り向くと、執筆中心の毎日があり、歌うことから、離れて行きそうな自分があった。昨年、昔からの友だちから、こ

          目白村だより24(フランスの想い出⑥)

          目白村だより23(ヒロシマ・ナガサキ)

          先日、高松町(新宿区)の市民団体から、戦争を語り継ぐ会で、講演してくれと頼まれた。 正直躊躇したけれど、御紹介者のSさんには、いつも御世話になっている。私は、勿論、戦争は体験していないし、どれだけの事を話せるかは、わからないけれど、映画との関連としてなら、お話できるかもと、ポスターを展示する条件で、お引き受けした。 会場は、平均60歳以上の方たちが、60人くらい集まり、タイムテーブルは、かなりアバウトだったが、フランス式とくらべれば、気にならない。 私は、出席者に聴いてみたい

          目白村だより23(ヒロシマ・ナガサキ)

          目白村だより22(徳川の鼠たち)

          この暑さで、一番難儀をしているのは、生き物だろう。人間も生き物だが、大体は、クーラーを、使っている。 しかし、人間以外の生き物に関しては、蝉の声も聞かず、蚊もあまり見かけない。 烏の騒ぎも、地味になり、池の中の金魚が浮いている話も聴く。これらはまだ、人が分かるけれど、ふだんあまり目にしない生き物、動物たちは、どうしているのだろうか…。 目白は、比較的、公園も多いし庭のある家が多く、狸も確かに見るのだが、この夏の灼熱から、どう逃げているのか?

          目白村だより22(徳川の鼠たち)

          目白村だより21(丸長)

          パリの6月の暑さで、音をあげた私は、7月の日本の暑さに、悲鳴を上げた。これは生命に関わる暑さである。 なるべく外には、出ないよう用心していたが、それでも目白でも、いろいろなことが、起きていた。 目白名物、つけめん(丸長)は、知る人ぞ知る有名店。大体並ばずには、入れない。たまたま、暑さでフラフラしながらも、買い物があり、外にでると珍しく人が並んでいない。ヨッシヤ!昼は、つけめんと思い、前まで、ゆけば、シャッターが下りていて、そこの張り紙に、当分休むとある。 そこは村社会、すぐ居

          目白村だより21(丸長)

          目白村だより20(パリ通信5)

          ベルビルに一月暮らして、サン・ジェルマンにもオペラにも、ほとんど行かなかった。 ベルビルと言う街は、パリの中でも、異質である。何十年も、見知った都市でも、こんな処があったのか?と言う想いであった。 アラブ人、アフリカ人、中国人、インド人、それにトルコ人…ここに世界のアーティスト系の人々が加わるので、カオスそのものとなる。サンドウィツチも、中に入るものに、異国の香辛料が混ざる。 この街で、忘れられないのが、エディト・ピアフ。通りを歩いていると、いやでもその生家が目に入る。ピアフ

          目白村だより20(パリ通信5)

          目白村だより20(パリ通信4)

          先日、ペール・ラシェーズでの、命がけの墓探しを書いたが、まだ2つどうしても、今回みつけたい墓があった。シャルル・ジャックとレジーヌの墓である。 画家と歌手、しかも、時代が、100年は違う人間である。共通するのは、商才。 ジャックは(1813~1894)バルビゾン派の七星のひとりとして、とても有名で、ミレーと特別に縁が深い。 ブルターニュの田舎から、出てきたミレーの才能を認め、パリ9区の自分のアトリエの隣に住居を世話した。  やがて、ペストが大流行すると、パリを逃れて二家族で、

          目白村だより20(パリ通信4)