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子どもの頃の夢を教えてください!!

私の場合、はっきりと記憶にのこっているのが、2つ、まず最初は、野菜屋さんになりたい!
子供のころ、小さい世界になりがち。これはその典型で、近所でよく行く市場、商店街がありました。いつもそこの前を通っていた。そこがとてもにぎやかで、店の人がかっこよかった。憧れがその理由です。なぜ野菜屋さんなのか、わからないけれど。人気があって儲かっていたのでしょう。かけ声よく活気がよかった。いまも本棚にある、小学生のときの、作文に、私の夢、という題で残っています。まあ、作文才能は、ゼロであることの証明です。

もうひとつは、漫才コンビです。誰とやる、というアイディアまでは至らなかったけれど。実際に小学生のとき、大勢の前、体育館で漫才をした写真が残っています。これが、人を笑わせる、楽しい私のDNAになっていると、今も思っています。関西特有だと思います。有名な、やすし&きよし、かしまし娘、に憧れていました。家のテレビで、父がプロレス、私は、漫才、お笑い。当時は、梅田花月、という番組をよく見ていました。漫才 ”コンビ”という一人ではやらない、子供なりのリスクヘッジを考えていたのでしょうか?しっかりと安全を優先するずるいタイプでした。

子どものころ、影響を受けるのは、テレビ、回りの仲間、親、環境、狭い世界です。親から、松下幸之助のことを、よく話して聞かされました。それが影響したとは思いません。しかし、中学生、成長していくと、国語より、数学、工作が好きだとわかってきて、自転車、電車、機械の仕組みに興味が向かって行ったのは当然です。近所の同級生が松下電器に勤めたのを母が、ボソッと行ったのを思い出します。

家庭が貧乏だったことから、お金を稼いで、親を幸せにする、というのが子供心のベースにあったと思います。まとめると以下です。

・商店街でとても儲かる野菜・果物屋さんになる(当時儲かっていた)

・漫才コンビで成功、どれだけ儲かるか、理解していない、しかし人気があり憧れていた。市民会館で公開、のど自慢大会に出演した記憶がある。(漫才ではない)

私が幼稚園に行く前、母は、近くの印刷屋さんで働いていて、私は、いわゆるかぎっ子、その後、内職(自宅で人形作りなど)をいろいろやっていた。まるで、昭和、3丁目オールウェイズ映画みたい。

その母を間近でみていたため、モノつくりに興味がでたのは当然でしょう。実際、手伝っていたこともあった。クリスマス、誕生日プレゼントは、必ずプラモデルだった。(戦車、戦艦、戦闘機、お城、武将の兜・・・)

父は、コンクリート工場に勤めたり、知り合いと事業を始め失敗、タクシ運転をしていたことも。人生後半、ゴルフ場の庭を整備する、植木職人を75歳までやっていました。

父親の夢は、土木設計事務所に勤める兄と事業を一緒にやることだったようです。私は、20歳に実家から東京に出たので、諦めたようです。しかし、出世はしてほしいかったみたいで、近所に、尾ひれがついた自慢話が広まっていました。

私の下の息子は、音楽雑誌の編集をしていますが、小さい頃、お金持ちになる、と言っていた。しかし、理科系に進んだにも関わらず、好きな音楽の道を選び、出版業界です。

上の息子は、私の姿を見てかどうかわかりませんが、IT系の会社に勤めています。小さい頃は、ゲーム好き。今もかわらないので、その延長線で、IT会社の営業職というわけです。人生こじんまりをまとまらないで、夢持って生き生きしてほしい、と思ってます。子供の夢は、受け継がれていく。