AIだの恋だの

 昔と何も変わっちゃいないと感じてしまうトリガーになる古い曲や映画は、その過去があまりにも無様で、かつ人生後半なのにかつての苦悩がシーケンシャルに現在に接続していると、焦燥感をかりたてるだけで、甘酸っぱい過去を思い出してニヤニヤするような便利な娯楽とはなりえない。

 長く余裕のない暮らしをしていたら、サバイバルが自己目的化して、「余裕がない」を言い訳に人生の只の傍観者になっていく。しかしそんな平坦な繰り返しの日々にも、ごくまれに、人によっては一生に一度くらいの頻度で心躍るような出会いが訪れる。神秘主義を厭い、無頼を気取るようなどうしようもない性分の男が、一時的に「出会わせてくださってありがとうございます」と神様に感謝したりするほどの。ただ神様は例えばサブスクのようなものがあるとしてそれに継続加入している忠実な者には恩恵を与えてくださるが、都合のいい時だけ単品購入する者には冷淡で…、残念ながら"運命の人"への"初恋クレイジー"は、事態が好転し始めた瞬間に終わり、"君が思い出に"なった。彼の"ナナへの気持ち"は空回りし、地を這う日常から"空も飛べるはず"と一瞬宇宙高くまで高度を上げたのも束の間、急降下して墜落、廃人となって1年足らずを過ごし、浮上の目もないまま年だけを取ったと感じた時、昔何度も聞いた『冷たい頬』がラジオから流れてきた。

 冷たい頬はタイトルの示す不穏なイメージから、死を隠喩したものとする解釈が昔から有名で、とくにそれが深読みというわけではないくらい歌詞の他の部分も明らかに不穏だ。ただ死別かどうかは棚上げするとしても、避けられなかった別れの強烈な悲しみと向き合う心情がヒーリングのようなメロディに乗せて歌われているというだけで十分、自己憐憫で惰眠を貪るばかりの停滞し淀んだ状況に寄り添い心に浸透する。

あきらめかけた 楽しい架空の日々に
一度きりなら 届きそうなきがしてた
(略)
ふざけすぎて 恋が 幻でも
構わないと いつしか 思っていた
壊れながら 君を 追いかけてく
近づいても 遠くても 知っていた
それが全てで 何もないこと 時のシャワーの中で

さよなら僕の かわいいシロツメクサと
手帳の隅で 眠り続けるストーリー
(略)

スピッツ『冷たい頬』

 どことなく悲しいメロディに乗せた語り口は、一度きりなら届きそうな気がしてた「のに」実際は無理だった、という反実仮想である。内心「もし…なら、…だったのに(そうはならなかった)」と英語の仮定法過去のようにつぶやく人、願望が強く、実現する力が弱い人間はそういうじめじめしたしみったれた詞に共鳴しがちだ。
 そして有名すぎるサビ「ふざけすぎて…」はそのフレーズが前触れなく唐突に頭に浮かぶことがあるくらい、恋なるものの芯を捉えている。恋は真剣なものでなければならないが、コブクロの『君色』にも語られているように、直球の「好き好き大好き超愛してる」というアピールがうまくいかないことはよく知られている。

好きだけじゃだめなこと わかってるけど
好きの気持ちに何が勝てるの

コブクロ『君色』

 ならば、とふざけてみるのである。達観したり抽象化して、ない頭で不遜にも「理解」しようとする。愛や恋についてわかった気になって饒舌に語り、結果「愛なんて幻想ですから」などと何一つ新しいところのない言明を偉そうにのたまうようになる。それがふざけるということ。ところが分かった気になり調子に乗っても実際は思い通りにはいかず「壊れながら」追いかけていく。頭で理解することを至上命題とする彼は性懲りもなく「それが全てで何もないこと」を知っていたと強がる。人生を賭け金にしてもいいほどのめりこんだ相手、そしてその離別を前にしてもなお、頭でっかちの彼は理解して納得したい、安心したいと欲望してしまう。頭で考え言葉にして理解し抽象化して整理しバッファのことを思って概念化してコンパクトに記憶し、残った容量と時間を好きなぶん切り取って仕事や娯楽に費やそう、人生は有限なのだからタイパのいいアロケーションを組むのだ、人はそうそろばんをはじいてしまう。相手の気持ちを傷つけ、不可逆な破局をリカバーするためにハートではなく頭を使おうとする…など。でもそれのどこが人生をbetした本気と言えるだろう。「ふざけすぎて恋が幻でも構わないと思っていた」のフレーズは強力で、そういったことを次々に連想させる。恋は幻かもしれない。けれどもそう呼ぶことで無と同じと勘違いして、コスパ・タイパのエンジニアリング化することは、はばかられる。では何と呼べばよいだろうか。

 映画『インセプション』の重要な(と町山智浩が指摘している)「Take a leap of faith.」はそれを信仰と呼んでいる。世の中は宗教や信仰といったもの一般が退潮し損得勘定を上位に置くひとも多くなったが、それでもまだ、信仰が完全に駆逐されることはなさそうだ。ハンパな・足りない合理性は打算と呼んで蔑まれ、殉教者のほうが支持される。では徹底した合理性はどうだろうか。近年生成AIの台頭によって意思決定をAIに委ねる利用法も模索されるようになった。人間が行う拙劣な損得勘定ではない、徹底した損得勘定には多数の人が魅了されはじめている。

 ところで東浩紀がAIのイベントでAIは意識を宿すかという質問にこのように答えていた。意識というのは後悔や反省のことである、と。それは経済学におけるサンクコスト(埋没原価)について知っているのに人生に応用できない現実の人間を見ればよくわかる。サンクコストは今さらもう動かしようがない原価である。だから功利主義的に考えれば、その分野・その事業に将来性がないなら撤退が望ましい。しかし人はそう簡単にこだわりを、過去を捨てられない。損切りしないでどんどん損失が膨らんでその都度まずいなあと思ったり後悔してもし続ける。反省をいつまでも繰り返す。AIならばそのような投資意思決定は行わないだろう。結果AIは後悔をせず、後悔を意識と呼ぶならAIに意識は宿らないことになる。人間の意識への示唆に富む指摘だ。

 サンクコストといえば、合理的経済人という仮定が感覚的に受容しずらいというので、行動経済学が一時期トレンドになった。これも人の思考のノイズや非合理性という文脈なら理解しやすい。AIが功利主義を突き詰めることができるのに対して、人間は身体の時間と空間の制約によって完全な合理性には到達しえない。AIの進化を展望するにつけて、信仰を抱いたり、後悔したりする人間の意識の特徴が浮き彫りになる。

 損を受忍しながら何かに拘泥してしまう、という制約をあえて選択する人間は愚かで滑稽だが、同時に賢く理性的でありたいとも望んでいる。2つが併存するのが人間というものなのだろう。『ゲンロン15』の論考にも人間の2つの側面として、動物的(市場)―人間的(政治)、消費者―生産者、客―裏方という対比が描かれている。人間というものへの原理的な理解を提示するこの論考は、大衆の時代の学問のあるべき変容を解き明かそうとした。「現実」を解明する経験科学とともに「幻想」の厄介さに向き合う哲学の重要な役割を説く。超越論的と思われた真善美のような理念は実は幻想で、現実に合わせて訂正されるもので、ただし、現実の全面化には気を付けないといけない。

 ここで幻想と定義したり信仰と言い換えたりした恋が思い出される。狂信者にもならず、功利主義にも陥らないようにするには、現実と付き合いながら恋を修正するほかない。『冷たい頬』は人にとって宿命的な不断の後悔を感じる。ただし後悔と反省を繰り返しつつ、全く前に進まないわけではない。その方法は時間をかけて少しずつ修正することなのだろう。

 思えば過去の節目には幾度か斉藤和義のあの曲が背中を押して、間違えたかもしれないけど変化を望んだ。人生の残り時間、無為を受け入れ後悔ばかりして過ごすにはやや長い。老境に差し掛かろうというフェイズでも、現実は選択を迫ってくる。幻想が現実に浸食されて潰されない強度を持つには独りの自己幻想では限界だ。生きて進むためにもまた、対幻想(恋)は必須なのかもしれない。

嘘でごまかして 過ごしてしまえば
たのみもしないのに 同じ様な朝が来る

斉藤和義『歩いて帰ろう』


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