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止まってから見えるもの

モンゴルから帰省後、たくさんの仕事や写真展の開催などでとても忙しく(どれも自分が始めたことなので自業自得だが)全くと言っていいほど心に余裕がなかった。

忙しいとは心を亡くすと書くと言うが、これは本当だなと思った。

気づけば12個の仕事ややらなければならないことを同時に行なっていて、自分でもよくこの量の仕事をこの短期間でこなしてきたなと思う。

人によっては12個のタスクなんて当たり前かもしれないけれど、本来3つでパニックになってしまう僕からしたらとんでもないことだったと思う。

イエスマンになり、せっかく僕に依頼してくれたのだからちゃんとやり切ろうと張り切るばかり、自分の能力やスケジュール管理が全くできなった。

それでも仕事の質は落としてはいけないと必死にやっていたが、やはり最後の皺寄せは僕の身近な人達へと飛び火し、大切な人たちを傷つけてしまうこともあった。

そしてそういう時にこそ、僕に対する悪口や陰口も、大きな力を持って聞こえてきてしまい、精神的にも追い詰められた時期となった。

それでも写真展は無事に成功し、大切な仲間達と大切な時間を今年も刻むことができた。


モンゴル前からダッシュで駆け抜けて、気づけば晩秋。

鹿のラッティングコールが響き渡り、白鳥がロシアから渡ってきて、いつしか朝晩の気温もグッと下がった。

やっと最近は以前ほどのバタバタがなくなり、僕は1日山へ行くことにした。

何をするわけでもない、自然の中にどっぷり浸かる時間が僕には必要だった。

森の中で、僕はずっと歩き回っていた。

時折止まり、あたりを見渡し、そしてまた歩く。少し休んではまた歩く。

変わっていく景色を楽しみながら、ふとあることに気がついた。

僕は人生も旅をしている時も仕事の時も森を歩いている時でさえ、いつも動き続けてばかりだった。

何かに変化を持たせ、日々を刺激的に過ごし、仕事もたくさん入れた。

モンゴルを旅している時もほとんど休憩など取らず、山へ歩きに行ったり車で出かけたり、町に戻ってからも散策をしたり、とにかく動き続けているのが常だった。

僕の親しい友人から以前「道さんはいっつも動いてますよね。頭も行動も」

それを言われて自分のこれまでの旅や人生を振り返ってみると、確かにそうだった。

じっくりと腰を据えて、根を張るということが僕にはできなかった。

そんなことを、山にいるときにふと気付かされた。

少しだけ、止まってみた。

10分、20分、30分…時折持ってきたコーヒーを飲みながら、1時間ほどその場にじっと座っていた。

そうすると、実に多くのことがクリアに見えてくるのだった。

頭上を何度も白鳥やトンビが周回し、エゾリスはあちこちの木を飛び回って冬の準備をしている。

ガサガサと音が聞こえたと思ったら風が葉を落とす木枯らしで、目の前の木も30分で随分と多くの葉を落としていた。

足元をクモが歩いていき、目の前の沢ではどこからか流れてきた葉が目の前の木の根に引っ掛かったと思ったら、いつしかどこかへ流れていった。

アカゲラは木を突き、鹿のコールは少しこちらへ近づいてきたように思う。

立ち止まって見てみると、実に多くのものが見えてくるのだった。

自分が動けば周りの動きに散漫になるが、自分が止まれば1度周りが良く見える。

あぁこれが自然を感じるってことなのかなと思った。

目まぐるしく変わる世の中、SNSに投稿した内容も1週間も経てばかなり昔になる。

変化し続ける世の中に適応しようとしたあまり、自分のペースをも乱れ、そんな生活が嫌でここにきたはずなのに、いつしかまたそれに飲み込まれていた。

ゆっくりと空をトンビが旋回している。

目の前の木も、風に任せ、お日様に生かされながら、少しずつ次の季節に備えている。

自らを持って然るべきと書く自然。

もう少し、立ち止まってゆっくり周りを見渡す時間を大切にしよう。

そう森に向かって話してみた。

風がそよそよと吹く。頬を優しく撫でた少し冷たい晩秋の風が、それでいいよと答えてくれた気がした。


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