東京の吐瀉物

足音。
嗚咽が聞こえ、東京の喧騒が止む。


恋人が吐いた。
電柱の影とかでなく、飲屋街道のど真ん中で。
吐いた。
さっき居酒屋で食べた料理たちが、健気に再登場した。
もちろん熱烈なアンコールをした覚えはない。
僕はすぐさま彼女の背中をさする。

男「大丈夫?」

が、僕の視線は吐瀉物にしか向いていない。
彼女の口から出た料理たち。一つ一つを観察して、
ああ、さっきの店のだし巻き卵、値段が安い割に出汁がしっかりきいてておいしかったなあ。なんて思う。
あれ?ダメだ。何考えてるんだろう。正気か?
なんでこんなにもぼーっとしてしまうんだろう。
そう自問しながらも僕は気づきつつあった。
沸いてしまったある感情を必死に押し隠そうとしている自分自身に。
そうか。これが。あれか。ついに。きてしまったのか。
魔法が解けようとしているんだ。彼女が蛙になってしまう。
スローモーションの世界で彼女の逆排泄行為を眺める僕。
心ではさまざまな感情が溢れ出していた。まるで吐瀉物のように…。


大学一回生の時だ。彼女は二回生で、一回生の新生活を支援する大学主催のボランティア団体に所属していた。出会いは、履修相談会。授業に出ずとも出席が取れる授業を少しヤンチャそうな先輩に教えてもらっていたところ、彼女は現れた。

彼女「そんなの教えちゃダメだよ!」

と叱る彼女は、真面目で強い女性に見えた。けれど、何よりめっちゃくちゃ可愛かった。
そんな彼女は今、逆排泄行為中だ。
それからの展開は、どんな恋愛映画よりも速かったと思う。
僕が浪人してたのもあって学年は違えど、年齢は同じ。
地元もたまたま同じで、二人とも陸上部で実は昔出会ってたとか、とにかく話があった。
あれから、あっという間に四年。僕らはどんなときも一緒だった。
彼女は東京の某会社に無事就職。
夏の長期休暇初日の今日、大学4回の僕は彼女に会うため、東京にやってきた。彼女の仕事が終わるのを待っている間、一通り初めての東京を観光する。
東京ラブストーリーってめちゃくちゃ雑な名前だなって思ってたけど、そらそうなるわって思った。それくらい、東京は輝いていた。埼玉ラブストーリーとか千葉ラブストーリーとか地獄だもんな。
吉祥寺、有楽町、下北沢、聞いたことある地名を駅の改札で眺めていると、歩いている人たち全員にストーリーがある気がして、僕も一人の主役になれた気がした。
ただただ、嬉しかった。

夜8時ごろ、彼女は待ち合わせ場所に15分ほど遅れて現れた。彼女が遅刻をするのを初めて見れて、最初は少し嬉しかった。けど、やはり社会人というのは大変なのだろうか。
あまりお酒を飲まない彼女が浴びるように飲むようになっていたり、あんなに否定していたタバコを始めていたり…
久しぶりに会った彼女は、電話やLINEから想像していたイメージとは違い、その変化はたった数ヶ月の割に大きく感じた。
そして今、そんな彼女は逆排泄行為をしている。
というか、逆排泄行為ってなんだ。排泄行為が排便排尿だとして、その逆は食事ではないのか?僕にとっての排泄行為は、行為ではなく場所、どこからブツが出るかなのか?
あれ?まただ。何考えてるんだろう自分。落ち着けよ自分。

彼女「ごめんね。水。お願いしていい?」

彼女の声が聞こえて、僕は現実に戻る。

男「わ、わかった!」

30m先くらいに自動販売機が見えて、僕は一目散に走り出した。
そこかしこにある居酒屋から聞こえてくる話し声。
お祭りかのように往来する人々をかき分けるように、ただ走る。
そうだ。思い出した。二十歳の誕生日のこと。彼女の家で初めてお酒を飲んだときのこと。

男「(酔っ払った声で)ねえねえ…付き合う?」

それが、告白だった。ダサすぎた。お酒の勢いに任せるなんてやり方をしてしまったのを今でも後悔してる。それに、事件はその直後に起こった。
父も母もお酒は弱かった。だから警戒はしていたんだけど、半分飲んだぐらいで、心臓の鼓動が大きくなった。顔が赤くなって、女の子の部屋でしかみたことない白色のフワッフワのカーペットに吐いてしまった。
なんだ、僕の方が先に吐いてるじゃないか。あの日がトラウマでお酒を全く飲まなくなったから忘れていた。
あの時、彼女は何を思ったんだろう。

財布を開くと、小銭は500円玉しかない。
自動販売機に500円玉を入れるが、新500円玉だから反応しない。
仕方なく1000円札を入れて110円の天然水を買った。
落ちてきた天然水を二の腕に挟み、お釣りがゆっくり、ゆっくりとおちてくるのをそわそわしながら待っているとき、彼女の方を見た。
道に広がった吐瀉物。
嫌な顔をして彼女を見下げながら通り過ぎていく人々。
しゃがみ込み俯く彼女が心なしかいつもより小さく見える。
思い返せば、彼女はいつも綺麗だった。
年齢が同じではあるけど、大学では先輩で、だから気づきにくかったけど、所作や言葉遣いだったり、日々の行動はいつも完璧だった。待ち合わせ場所にどれだけ早くいっても、彼女は先にいた。家もいつも綺麗で、あんなにフワッフワなカーペットがあるのに髪の毛ひとつ挟まっていなかった。彼女のおならやげっぷ、めやにや鼻くそ、人間なら仕方ないはずのそれらを僕はまだみていない。道の真ん中で吐いたのも、きっと家に帰るまで我慢しようと決心してたからだ。飲み過ぎで吐く自分を僕に見せたくなかったんだ。
こんなにも気が動転した理由に気づけた気がした。
反発だ。
こんなちっぽけなことで気が動転してしまうほど、僕にとっての彼女は完璧だったんだ。
気がつくと僕は彼女の元へ走り出していた。
僕のために、日々完璧であろうとした彼女の姿を想像して、少しだけ涙が出る。
最低だな自分。彼女を蛙なんかにしてたまるか。僕は彼女を一生守らなければならない。そう思った。彼女から出るどんなものも、僕は受け取ってあげたい。それがたとえ、吐瀉物であっても。

だって…だって誕生日のあの日。あんなにもダサい告白を彼女は受け取ってくれたから。

彼女「いいよ。ありがとう」

二十歳一日目の朝五時。目覚めると、カーテンの隙間から薄青い光が漏れ出していた。彼女は何事もなかったかのように僕の隣ですやすやと眠っている。ふと見ると、白色のフワッフワのカーペットはそこにはなかった。体を起こした僕に気づいて、彼女は僕の腕を引っ張りもう一度布団の中へ誘った。罪悪感に苛まれていた僕を優しく包み込んだ彼女。全てを好きでいてくれた彼女。

人混みを逆行し、走る。走る。走る。
東京は、社会は、冷たい。
すれ違い、通り過ぎていく人々全員が僕らを蔑んでいる。そんなわけないけど、そう感じる。
こいつらが、この場所が彼女をこうしたんだ。
社会にもまれ、冷たくあしらわれた彼女を温めてあげられるのは僕しかいない。
だからそうする。そうするに決まってる。
この辺りで、自動販売機に置いてきた890円が少し名残惜しくなる。
しかし、そんな気持ち振り切って走る。

美しく輝くこの東京にも吐瀉物は転がっている。
けど、それも全部こみで僕はありのままの東京を、君を好きでいたい。

彼女の元について、すぐに水を渡す。
はあ。はあ。はあ。
久々に走って、息切れする僕。
彼女への感謝と後悔。東京のこと。これからのこと。そして、890円のこと。
もうよくわからなかった。無意識だった。吐瀉物のようにぐちゃぐちゃに溢れ出した感情が、僕の口にある言葉を言わせた。

男「結婚してください!」

彼女は飲んでいた水を小さな両手でゆっくりおろすと、青ざめたきょとん顔で僕を見た。
その顔はいつもと変わらず、とてつもなく可愛い。
スローモーションの世界で見つめ合う僕ら二人。
そうか。これが僕の、いや、僕らの東京ラブストーリーか。
そう思った次の瞬間、僕の顔は彼女の吐瀉物に覆われた。


ラジオドラマ脚本。2024.4

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