見出し画像

思い出したかのように自己紹介(未完)

「昔のアナタの方が好きだった。」
 好きだった人にそう言われたら皆さんはどんな気持ちになりますか?

 ハローハロー眠れぬ民よ。私は愛知県に住むしがない切り絵作家で、不意に自己紹介を更新しようと思ってこのnoteに向かっています。眠れないときってさぁ、どうしてもSNS見ちゃうよね。人間関係の断捨離とか言える人たちってきっと心が真冬の北極ぐらい冷んやり固く凍っているんだろうな。笑
 僕は実は2019年に「第二回全日本芸術公募展」というので佳作を受賞しています。それを言うのを忘れていた。というか、言いたくなかった。自信のなかったころの自分を大事にしたいから、そんな立派な肩書をもらうほど俺は大した人間じゃないよって言ってたいから、と、随分とまぁ、卑屈な理由で僕は賞の受賞をあまり人に言いません。でもそんな風に卑屈で不安症で、時々訳の分からないところで屈託もなく笑えていた、泣いていた自分がいつからか変わり始めたんだと思う。
 それは、いい変化で基本的にはあるはずで、自分に自信がついて、人に切り絵を教える仕事がしたいと口に出せるようになって…いい変化が多いはずでした。なので自分の耳に届いた「昔のアナタの方が好きだった。」は大きなインパクトを持って前を向いたはずの僕の心に刺さりました。自分でもちょっと思うところがあったのだろうなぁ…俺はエラそうな人間になり下がってしまったんじゃないかって。
 僕にはかけがえのない記憶がいくつもいくつもあって、僕の人生のどうしようもない情けない積み上げ方でないと手に入らなかったような、僕のためだけに用意されたかのような、友人との出会い、職場との出会い、今生の仇とも思える父との遺恨をほどいてくれた恩師の言葉、そう言ったありあまる富がかすむほど、僕は自分の立ち振る舞いが気になっています。あ、そうそう、これ自己紹介でした。(笑)
 僕は愛知県で切り絵作家の活動を15年ほど続けています。といっても未だ趣味の域を出ていなくって、アルバイトさえなかなか続かずメンタルが病んでしまって入院したこともあるような、ちょっとならざるエキセントリックさを持った人間です。このnote見てる人そんなにいないもんね…思い切って2回目の入院の時から現在までの自己紹介にしたいと思います。
 まず、二十代半ばで派遣会社に僕はいました。バイトさえもほとんど続かない日々だったので、住み込みで働くその派遣の仕事は僕にとって大きすぎるチャレンジでした。たった1週間ほど住み込みで洗い物を中心に働く飲食店での仕事。電車に乗って県外まで行って、派遣会社の人に迎えに来てもらった車の中で、
「今から行くところすごい田舎だよ!」
 と言われ、
「僕は小さいころド田舎に住んでいたので大丈夫です。」
 と答えましたが、買い物に便利なスーパーマーケットまで高速道路を使っていくようなその土地に気づいたときには後の祭り。忙殺される日々と、上達しないキッチンでの仕事に悪戦苦闘する8日間の始まりでした。でも、僕はものすごく幸せでした。自然の美しさもあったかもしれないけれど、それよりも同部屋になった男の人が、
「昨日誰か来るって言われてすごい焦った。掃除しといたからな。」
 と、優しく迎えてくれたことや、他の派遣仲間も仲間意識が強くって、高校になじめないまま卒業し、専門学校に行き、中退し、精神病院に入って入院したその後の生活だった僕には天国のような人とのつながりがありました。
 そこで、僕は切り絵を披露します。仲間たちと過ごした日々は、「お前の切り絵すごいなぁ」や、「お前全然だめ、生まれるところからやり直して」という辛すぎるジョークや、みんなでやった花火や、旅行や、売店で美味しいものを見つけることとか、ちょっとしたこと、どうでもいいような記憶の中にさえ僕はキラキラしたものを見つけることができます。そう、派遣の仕事は延長して、僕は正社員になろうとしていました。切り絵についてはみんなから自信をもらい、一生続けると決めたんです。でも、冬になるころに寮に残ったのは僕1人でした。なぜならみんな他の土地へ派遣先を変えるシーズンだったのです。僕は恋をしたし、ジャージャーと泣いたと言って過言ではないほど、みんなとの別れを惜しんでいました。冬、つらかったなぁ、今でもそう思います。2度目の入院までにはまだまだ時間があるので、最後まで書ききれるかどうか不安です。
 そして、派遣の仕事もつらくなった春に僕は実家へ帰ります。実家へ帰ってすぐ、僕は傷心旅行へいきました。八丈島。そうそう八丈島ではね…って、長くなりすぎるので割愛です。派遣のみんな元気かなぁと、いまだに八丈島旅行の写真を見る時に思い返しています。
 そんなわけで、前回の自己紹介の続きなので出会った頃についても割愛しますが、僕は切り絵を一生続けると決めて実家へ帰ったわけです。実家で飼っていた猫はチャトラっていう茶色のトラ柄の猫だったんですが、僕が泣いていると夜中にいつもは布団の中に入ってくるのに顔の横でじっと座っていてくれたりする、誤解かもしれないけれど、僕はチャトラとは心が通じ合っていたと思っています。チロル、というシャム猫との間に生まれたシャム柄(年々グレイが濃くなっていきました)の猫もいました。僕はチャトラが好きでねぇ、抱っこした写真がいっぱい入っているパソコンはもう動かないのに捨てられずにいます。
 実家、みなさんはどういう印象ですか?
 僕は父との葛藤と他の家族との団結の日々という感覚です。実家で起こるってことって誰にも理解してもらえないけれど、でも人生のかなり大事な位置を占めていて。なかなかしんどいっすよねぇ。
 さて、実家に戻った僕は近所に、ものすごく近所にカフェができると張り紙が貼ってあるのに気が付き、応募し、アルバイトで採用されました。派遣のみんなに教えてもらった飲食でのスキル(ホールは少し得意、厨房は包丁への恐怖感が無くなったくらい)を買ってもらったし、すごくオーナーには良くしてもらったと思う。いまだにオーナーの作ってくださったマニュアルは、人と接するときの接客の「心」を取り扱ったもので、とても響く内容でした。オーナーのこと今でも尊敬しています。現在の僕は独り暮らしですが今でもその時に習ったパスタをよく作っています。
 さて、実家の方では父との確執が大変なことになっていました。人に深く話せる日は来ないだろうと思うぐらいにあまりにいろんなことがあってここも割愛なのですが、僕はメンタルをどんどん病んでいきました。
 メンタルを病んでいく最中、あの派遣のみんなが旅行に誘ってくれたりもしました。でも、バイトに中々入れずお金のなかった僕はその誘いを断っていたりもしました。話せる父とのエピソードでは、母と二人で本気で作った作品をビリビリに破られたりしており、鬱屈していた僕は父に暴力をふるう寸前のところで母に止められている状態でした。
 そして、忘れもしません。クリスマスに家族一同で集まった日のことでした。それまでにはチロルは亡くなっていたのですが、チャトラも亡くなりました。(ちょっと筆者泣いています)家族一同で集まったその日を選んだように、チャトラは息を引き取り、僕は悲しくて悲しくて仕方がなかったけれど、自分だけはシャンとしなきゃ!と他の家族の手前で気を貼っていたのをよく覚えています。
 そして、その後、両親が離婚。離婚は本当に救われる思いでしたが、僕は独り暮らしをすることになりました。今住んでいる土地にまた、住み込みで。(もうすぐ2度目の入院です、しばしご辛抱を(笑))
 大変だったなぁ、住み込みの仕事。もうメチャクチャつらいし、猫が他界したダメージもあって、知らない土地で頼るあてもなくメンタルはボロボロになり退職。今住んでいる部屋で1人暮らしを始めました。
 やっぱり全部書くのきつい、続きはまたいつか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?