見出し画像

絶望するように現代はできていない

 自分のnoteを読み返してたら暗いことばっかり書いてる気がして、あーあ、もうちょい良いことないかなぁ、なんか楽しいことないかなぁと何となくこのnote記事を書いています。
 ハローハロー、なんかさぁ古い時代のことを見返して時事ネタが言える人ってカッコいいよねって思うようになっちまったあたり、日曜日に政治番組を見ながら米粒を口につけたままうんうんうなづいているようなオッサンにどんどん近づいている気がする投稿者です。
 自分の人生で社会情勢がどれほど影響がありどれほど影響がないか、ってことを考えたいんですけれど、いかんせん、私には大した学がない。でも憧れはあるんですよねぇ…例えばさ、9.11テロって本当に捏造だったのかとか、地震の来る直前は猫の毛が逆立って落ち着きがなくなるとか、そういう都市伝説系の話が結構好物です。読んできた本は遠藤周作とか吉本ばななとか、作家読みをしている感じですかねぇ。新書を選ばないので時事ネタなんぞを話せるわけもないのだよなぁ…。
 友人が多いか少ないかって、対応できる話題の幅が広いか狭いかに結構左右されると思う。私なんぞは小説とかちょっとマニアックな映画とかそういうのを話題にしたがるので、「○○さんって実はむかし自分がゲイかどうか疑った時期があるらしい」みたいなそういう対人折衝を繰り返してきた人ならではの面白いエピソードトークができないから、話題の幅の狭さに比例して友人づきあいも少ないです。さみしいんだよなぁ要するに。誰か遊びに行きません?(笑)
 アメリカ映画でよくある「プロム」みたいな文化が日本にもあったらいいのにねぇ。お祭りはどんどん限られた集落の人々の娯楽に観光客が遊びに行く形になっていってる気がするし、そもそも昔はさかんだったらしい、子ども会とかお寺の社務所で町内会をやってたりとか、あぁいうちびまる子ちゃん的な社会の方が豊かだったような気がします。どんどん僕らは文明の利器に頼るようになってしまって、「どっか遊びに行かない?」こういう約束事をするのがメールで済ませるのはだるいしでもメールじゃなきゃ嫌がられること多いし、みたいな理由で人と会うのがどんどん億劫になるように社会が設計されてきているんじゃないかと思う。
 あと、機械のすることって完璧すぎるほどに完璧だから、私たちは人間にさえ完璧さを求めるようになってきている気がする。矛盾のないセルフプロモーションやマインドセット、心が病んだら家族ではなくって心療内科を頼るしかないような職場の方針があったり。昔、アニーホールという映画を見ていて主人公に対してアニーが
「14年も心療内科に行っているの?変な人!」

 そういうセリフがあって、国が違えば完治していなくってもカウンセリングもそこそこに心療内科を離れたっていいんだよなぁって思ったものです。でも日本じゃそうはいかない。辛いよねぇ、ホント、精神病ってさ。
 でもさ、こうも考えるんです。人ってそもそも何か突拍子もなくズルいところがあったり、変なフィギュアの収集癖があったり、どこかしらに汚点ともゆうべき人格の歪みがあるじゃないですか?人を愛する時ってその人格の歪みを見て見ないフリをしないでちゃんと向き合って、そのうえで「美点」と評することができたりすると、その愛が深いじゃないですか?マッチングアプリで条件のすり合わせをして、条件が合うから恋をするわけではないじゃないですか?なので、完璧さを求められるこの社会に対する最大限の反抗は、
「どうしようもない人々の中でもまぁまぁ幸せだし、正す必要もないんじゃないかな?」
 みたいなゆるさだと思うんです。激しいスピリチュアルな思想の人が自分に依存させて他の人やモノへの依存を絶つよう勧めることだとか、引き締めのきつい会社にいるのならネットワークビジネスでもやって副収入を増やして友達を減らすような道を勧めてくる人だとか、世の中けっこうぱっつんぱっつんに厳しいのにもっと孤独な道を勧めてくるのはこれいかに…と私は思います。
 ゆるく、でも大切な人のことは多少汚いところやズルいところがあっても臭いものにフタをせずに向き合ってとことん愛していきたいものではありませんか?
 よく考えるのは10人に好かれようとして7人と連絡先を交換できるような人生よりも、本当に大切なたった一人と深い人生について語り残り9人には嫌われた。後者の人生の方がよくないですか?これってマイノリティになってしまう思想だけど、マイノリティでいいや、って最近開き直っている筆者です。

 なんか、偉そうなこと書いてるなぁ私…。そんなこんなで取り留めもない日記でした。キラキラきら~ん。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?