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夫が最高な話 ―ケンカのあとの捨て台詞

次男が1歳になる直前、私の心と体のコンディションは最悪だった。夜通し泣き続ける次男。少し放置したり、トントンすれば寝るなんてレベルではなくギャーン!と全身突っ張りながら激しく泣く。抱っこをしても、ゆらゆらしても、キッチンに連れて行って冷蔵庫の冷気にあててみてもダメ。

しかたない。最終手段、添い乳(横になりながらおっぱいをあげること)をしよう。おっぱいは血液から作られるだけあって乳をあげると身体が削られる感じがあるし、夜間授乳のせいで夜泣きがひどくなる説もあるため早くやめたい。だが、こう1時間、2時間と泣き続けられると、おっぱいに頼らざるを得ない。乳首を口に含ませて泣き止ませ30分、次男がウトウトして、寝たか?とそっと乳首をはずすと「ギェェー!」最初からやり直し。私が泣きたい。泣かせてくれ。

毎晩夜泣きと格闘し、いつの間にか夜が明ける。そのまま休むことなく一日の家事育児がスタートし、子どもたちを見守りながらソファの上で気絶することもしょっちゅうだった。ひどい夜泣きの横で夫や当時2歳の長男がぐっすり寝ている姿を見るたび、なんで私だけこんなに苦しいんだろう、と孤独が深まった。

どんなに限界でも子どもたちには当たるまい、と日々封じ込め続けた私のイライラは、帰宅した夫にある日突然ぶつけられた。いま思い返しても、どう考えても言いがかりでしかない内容で、夫はさぞ戸惑ったことだろう。
私の怒りを真正面から浴びて、普段声を荒げることがまったくない夫も語気を強め、みるみるうちに大喧嘩となった。

もう埒が明かないと思ったのだろう。夫は強い口調で私に言い放った。
「もう、出てってくれへんかな!次の土曜日!朝から一日出てって!」
私は、そんな時間があれば家で寝たい!と反抗した。
「いいから、家から出てって!マリナは疲れてるんやわ!」

喧嘩でカーッとなった私は、ウッウッと嗚咽しながら友人にLINEメッセージを送った。

永遠に続くと思われた平日が終わり、土曜日が来た。
私は夫に言われたとおり朝7時前に家を出て、まずはコメダ珈琲でモーニングをキメた。1人で朝ごはんをお店で食べるなんて、いつぶりだろう。そして最寄り駅まで歩き、ゴトゴト電車に揺られて東京に出て友人との待ち合わせ場所に向かった。

夫と喧嘩をした夜にLINEで連絡をとった友人は元会社の後輩で、簡単には会えない遠方に私たち一家が引っ越した際にもSkypeの画面越しにお茶をするなどした仲である。
思考力が枯れ果てていた私は、気心知れた彼女にお出かけプランを丸投げした。残暑厳しい初秋だったその日、彼女は谷中銀座でかき氷を食べることを提案してくれた。1500円する、普段なら絶対に手を出さないであろう高級かき氷だ。最高だよ。なんという贅沢。うまうま。

他愛もない話で盛り上がりつつ別の店でランチを食べ、ウィンドウショッピングをしながら商店街を練り歩いた。このまま上野まで散歩しよう、とぶらぶら気の赴くまま歩いた。気のおけない友人と大人だけのペースで歩くこの感じ、なんとも懐かしい。

上野に着いて、私たちはカラオケ屋に入った。思いっきり歌うなんてことは久しくしていない。否、音楽を楽しむこと自体が久しぶりだ。うわ、この歌どんなんやったっけ、サビしか歌えない、などとヘラヘラしながら歌う曲あり、しばらくぶりでも毎日歌っているかのように歌える曲もあり。彼女と私の好きな歌手はあまりかぶっていないが、2人とも好きな曲を好きなように歌う。それがまた、新しい曲を知ることにつながって楽しかった。

日暮れどき、彼女と別れて私はひとりで夕飯を食べる店を探した。なんとなくボリューミーなハンバーガーを食べたくなり、スマホで適当に検索してヒットした店に向かった。
粗挽きビーフの分厚いパティとチェダーチーズがたっぷり使われ、どう頑張ってもかぶりつけなさそうなビジュアルのハンバーガーを注文し、飲み物にはチェコのビールを……と思ったが、ジンジャーエールにした。私には夜間の授乳が待っている。まだお酒を飲んではいけない。

その瞬間、ようやく子どもたちのことを思い出した。それまで家庭のことが頭からすっぽり抜け落ちていたことに驚き、今日は本当によく遊んだのだな、としみじみ思った。すると不思議なことに、子どもたちに会いたくて、いてもたってもいられなくなった。そして、無性に会いたくなった。今日の時間を作ってくれた夫に。

ダイエット中の人なら顔をしかめてしまうような巨大なハンバーガーをぺろりと平らげ、ジンジャーエールをキュッと飲み干し、私は席を立ってレジへと向かった。会計を済ませて、早足で駅へ向かい、電車に飛び乗った。これもまた久しぶりだな、と懐かしく思いながら夜の満員電車に揺られ、家の最寄駅に到着。小走りで家路を急いだ。


ただいまー、と開けたドアの向こうには、入浴のあと片付けられていない浴室、散らかり放題のリビング、ぐったりした夫と、夜になっても元気いっぱいの0歳児と2歳児の姿があった。
家事育児に理解のないパートナーならば「掃除ぐらいしたら?」と言ってしまう、おなじみの光景が目の前に広がっていた。
私は笑みがあふれ出るのを止められなかった。夫が一日中、全力で子どもたちと向き合ってくれたことが言葉にしなくても伝わってきたからだ。本当にお疲れさま。ありがとう。

私は谷中銀座で買ったお土産のクラフトビールをリュックから出して、夫に手渡しギュッと抱きついた。最高だよ、夫。
クラフトビールは私のリュックの中で完全にぬるくなっており、すぐには飲めなかったけれど。そういうところ、気が利かない妻でスマン。ビールは次の日、日曜の晩酌で飲まれましたとさ。

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