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いつも闘ってきた

私はいつもおかしいと思うことがあると徹底的に闘ってきたし、闘って自分の要求を勝ち取るタイプの人間だ。「リトルソルジャーというあだ名」でも書いたように、私はリトルソルジャーだ。今回は私が何と闘って何を得て何に負けたのか、その歴史を書くことにする(ここに書くことはほんの一部で、実際にはもっといろんな闘いがあったことも忘れてはいけない)。

小学生:提案と要求

小学生の頃の私はとにかく活発だった。お昼ご飯を食べる時間には録画したビデオテープやお気に入りのCDを持ってきて流していた。先生に事前に交渉して得た特権だ。流していたのはアヴリルラヴィーンや、SPEED、それから音楽番組を録画した動画だった。音楽発表会等で歌う時には、歌う曲を提案して、実際にそれはいくつか採用された。『でっかい宇宙に愛がある/モーニング娘。』『ALL MY TRUE LOVE/SPEED』『贈る言葉/FLOW』などを歌った。私も友達も歌が大好きだった。小学6年生の時には先生に相談して音楽室で歌やダンスや楽器を練習し、皆の前で披露する時間をもらった。『true blue/ZONE』を演奏し、『言葉より大切なもの/嵐』を歌い、『ラッキーチャチャチャ!/ミニモニ。』を踊った。とにかく提案するのが好きだったし、採用されると嬉しかった。

私は小学5年生の時の担任の先生が大好きだった。背が高くて、ダンクシュートができて、髪の毛は栗色でサラサラのマッシュルームヘアだった。私だけでなく、クラス全員が先生のことを大好きだったと思う。休み時間には一緒にバスケをしてくれた。私は6年生の担任もその先生にしてほしかった。絶対に担任を変わってほしくなかった。だから6年生に上がる前、友達を集めて皆で校長室へお願いをしにいった。提案ではなく要求だった。このお願いが効いたのかは分からないけれど、私は大好きな先生に6年生の担任をしてもらった。私は提案と要求で、ほしいものを手に入れてきた。

中学生:下校のキスと卒業式の歌

私は中学生の時、先生と2度対立し、2度負けた。1つ目は下校時のキスだった。学校帰りに男子生徒とキスしているところを学校に告げ口され、親と一緒に学校に呼ばれて何時間も説教されたことがある。私が14歳だった頃、ドラマ『14才の母』が放映され、私には14歳で母になった友達がいた。そういう環境だった。私は中学生の精神が未熟だとは思わないし、精神的には十分大人だと思う。誰と付き合って誰とキスしようが、私が学校の先生から何時間も説教される筋合いはないと思った(今は分かる、先生は私の望まない妊娠の可能性を心配していたのだ)。だからこの時は徹底的に反抗した。隣で申し訳なさそうに座る母の横で、私はふがふが怒っていた。反省文を書いた覚えはなく(もしかしたら適当に書いたから覚えてないだけかもしれない)、何か罰を与えられたわけでもなかったけど、私はキスしただけで怒られたこと自体に負けたと感じた。

2つ目は、卒業式で歌う歌についてだ(また音楽の話だ)。私は音楽の授業が大好きで、男の先生だった時も、そのあとに来た女の先生とも仲が良かった。とりわけ卒業式に歌う歌には憧れが強く、何を歌うのかは私にとても重要なトピックだった。私は先生と卒業式に『3月9日/レミオロメン』を歌う約束をしていた。でも、その後校長先生が変わり、卒業式は厳粛な雰囲気でやると大きな方向転換が行われた。卒業式で私達が歌うのは『仰げば尊し』だけになった。私は音楽の先生に約束を破ったと責めてしまった。「大人は皆そうだ!嘘ばかりついて約束を破る!大人は汚い!」と。提案でも要求でもなく、ただ怒りをぶつけてその先生を泣かせてしまった。他の先生とも掛け合ってみたが結局『3月9日』は歌えなかった。先生には謝ったけど今でも申し訳なく思う。私は推薦で高校に受かっていて、受験勉強していた皆のことも考えていなかったと思う。歌を歌うには皆に練習する時間をとってもらわないといけない。私はただ自分勝手だった。

高校生:体育祭のスカート

高校生の時は家から離れた街中の学校に通っていた。義務教育を終え、高校は初めて自分の学力レベルや雰囲気に合わせて学校を選べたので通うのが楽しみだった。ヤンキーもいない、いじめも横行していない、口汚い生徒もいない、平和な学校だった。もう何かを得るために闘うことはなく穏やかに過ごしていたと思う。
私の学校では体育祭のブレイクタイムに3年生の女子生徒の有志によるチアダンスがあった。先輩はとても可愛くて、私も3年生になったら絶対にチアダンスをやりたいと思っていた。そして3年生の秋、私は女の子たちを誘い希望通りチアダンスの披露に向けて準備を始めた。そしてまた闘うことになったのだった。今回の相手は生徒指導の先生だった。先輩が受け継いできた衣装は学校のミニスカートにルーズソックスだった。私達が高校生の時代はもうルーズソックスを履いている人は世の中にいなかったけど、私達も先輩を受け継ぎそれを衣装とし届出を出した。ところがだ、却下されたのだ。今まで何年もやってきたはずなのにだ。全く納得できなかった。スカートを折ってミニスカートにするのがダメだと。そんな!ひざ丈の学校スカートで踊るチアリーダーなんて見たことがない!私は何度も生徒指導室に行って交渉したがダメだった。私は地元の友達に頼んで地元の高校の友達からスカートを20枚程借り、そのスカートを折ってミニスカートにすることで事なきを得た。そしてスカートの中にはカラフルで派手なパンツを履くことで先生に反抗した(きっと見ていた生徒指導の先生は心底驚いたと思う)。中学生の私はただ敗北したけど、高校生の私は少し成長したのだった。

社会人:自分のことは自分で守る

社会人になって会社で勤めるようになってからの1年は本当に毎日が闘いだった。自分の時間を確保するために闘い、自分の休みを勝ち取るために闘い、自分の手柄を守るために闘った。ただ必死だった。社会人2年目になり、私は今までにない闘い方をした。今度の相手は上司だった。会社から携帯を配給されていなかった私は私用の携帯を仕事のために使うことに違和感があった。それは費用面ではなく、プライバシーの面での不安があったからだ。異動してすぐのこと、新しい上司に「先方約50人に配る資料の中に、緊急連絡先としてあなたの名前と携帯番号を書いて。」と言われたのだ。きっとそれを受け入れれば次の50人も、その次の50人にも私の名前とプライベートの番号を配ることになる。こういう風に配ったら緊急でなくても連絡がくることがあるのだ、自分のプライベート携帯に。冗談じゃない!私は上司にできないと伝えて「男性には分からないかもしれないが、女性がこういう風に連絡先を配るのにはリスクがあることだ。代わりにあなたの仕事用携帯電話の電話番号を使わせてほしい」と頼んだが、あなたの仕事だからと断られた。私はここで折れてはいけないと思った。そして会社が外部委託しているコンプライアンス部門に告発した。結局その上司はしばらくして他の規定違反を犯し、異動していった。

なんのためにどう闘うのか

私が闘う相手はいつも目上の人だ。私は自分のためや友達や大切な人のために闘う。声を挙げる。おかしいと思うことには徹底的に向き合う。大人になるにつれて私の闘い方は変わってきたし、もう必ずしも衝突を意味するものではなくなってきた。

もしかしたら私のようなタイプは珍しいのかもしれないと、最近映画『モキシー~私たちのムーブメント~』を観て思った。匿名でないと声を挙げられない人や、声を挙げることが難しい人もいる。私はたまたま声を挙げるのに出す勇気が少しで済む人間だったというだけだ。そして、それを周りや相手がちゃんと受け止めてくれる環境で生きてきただけだ。最近、友人が声を挙げたいけど勇気が出ず泣いた出来事があった。私はそういう友人のためにも、上手に闘う術を磨き続けていく。


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