G1カレッジが批判を軽視する空間であるとの批判を受けて

※特定の記事に対する応答文ですので,G1カレッジが何かをご存じない方にとっては特に得るものがない内容かもしれず,冒頭にてこれを注記させていただきます。

先日,G1カレッジというカンファレンス型イベントの同窓会が開かれ,2年ぶりに僕も参加させていただきました。その後,G1カレッジに毎年度参加していた敬愛する友人(南藤くん)が,G1カレッジについて「批判を軽視する(あるいは誤解する)空間」であると述べていたので,それについて応答しようと思います。(2015年度を運営し,かつ,上記記事内でも批判されているOPEN POLITICSに関わっている一個人として応答義務があると感じた次第でして,運営を代表する意見ではない点,ご了承ください。)


1.いや「批判よりも提案を」でしょう

G1という組織が3つの理念を掲げていて,そのうちの一つに「批判よりも提案を」があること,そしてその字句のせいで「批判を軽視している」ように見えることは,上記記事のご指摘のとおりです。

「批判よりも提案を」という人の多くは,基本的に批判を怖がっています。「勝負は勝ち負けじゃない」っていう人の多くは,たぶん負けることが怖い。で,「批判よりも提案を」っていう言い方は,なんとなく批判を軽視しているのかなと思われるかもしれません。が,個人的には批判の重要性を尊重しながら,次のアクションを考える側に立った「優しい」言葉だと思ったりもします。

上記記事の通り,批判の意味は,

物事に検討を加え、その正否や価値などを評価・判定すること。特に、物事の誤りや欠点を指摘し、否定的に評価・判定すること。(明鏡国語辞典第二版)

なんですが,提案の意味は,

議案・考えなどを出すこと。(大辞林第三版)

らしいです。これだけを見ると,「提案」とは単に案を出すことを意味しそうですが,本来「提案」とは,テーマや現状に対して改善すべき点があり,それへの代替案や改正案を出すことを意味します。
要は,「物事を検討し,その誤りや欠点を指摘(=批判)した上で,それに代わる案,補う案を出すこと」が「提案」の本質です。(批判∈提案)

逆に言うと,批判で終わる人はあんまり代替案や改正案持ってなかったりするので,アクション起こす側・原案者はアクションベースで物事を考える以上,生産性のない時間にやきもきするだけで終わってしまいます。だから,「批判よりも提案を」っていうのは,何か社会に価値を生み出すアクションを起こすためには,「批判的思考」と「アクションベースの案出し」をどちらも大切にしましょうねっていう「優しい」言葉です。

したがって,批判的思考がなかったり,批判の中身が本質的でないままの提案はゴミクズなので,提案をする際には常に批判的思考を疎かにせず行うべきだと考えます。自戒の念を込めて。

上記記事を書いた南藤くんは厳し目の言葉で,「提案よりも批判を」と言っていますが,これは議論のための呼び水であることも明らかで,要は「提案するのは良いが,しっかり批判的思考を持っているんですか」ってことでしょう。そのように理解した上で,あえて反論すると,やはりアクションベースで語らないと社会は前進しないので,どう考えても「批判よりも提案を」だと主張します(集合関係を上述のように整理する限り)。


2.何を可視化するかどうかの問題

で,名前を挙げられて指摘されているOPEN POLITICS(以下,OP)なんですが,これは結論から述べると「何を可視化するかどうかの問題」だと感じていて,そこが実際にOPとしても詰めきれていない部分です。

上記記事は,OPのWebサイトと理念を引用し,次のように批判します。

OPEN POLITICSの掲げるメッセージ(「すべての世代に被選挙権を。OPEN POLITICS―“政治”を全世代に開放する。今、政治を変えるとき。」※筆者注)はとてもビジョナリーである。確かに、被選挙権取得年齢が18歳になったら、なんとなく、若者に対して開かれた政治になるような気がする。しかし、逆に言えば、ビジョナリーでしかない。OPEN POLITICSは活動目的を「被選挙権年齢の引き下げ、多様な世代の声が反映される政治の実現。」と定義している。おそらく前者によって後者が実現されるということだろう。すなわち最終目的は「多様な世代の声が反映される政治の実現」である。(もしそうでなければ被選挙権年齢引き下げそれ自体が目的化しているということであり、この運動の正当性が担保できない。)しかし、このウェブサイトには、なぜ前者によって後者が実現されるのかの具体的な説明がない。

OPは,2015年度G1カレッジの政治部門で,平将明衆議院議員と10名ほどのメンバーが侃々諤々議論し,「政治を若者世代にも開放するには」を念頭に,様々な政策提案の中で「被選挙権年齢引下げ」を提言することにしました。そこには,その後実現されるべき政策もあれば,重要性が一段階下がる政策等もあり,様々な比較衡量をした結果の政策選択です。

ただし,OPが掲げるのは「政治を若者世代(あるいは全世代)に開放する」ことであって,「政治を”リテラシーある”若者世代(あるいは全世代)に開放する」でない以上,難しい議論を展開することで,このキャンペーンに賛同する方が限定されてはいけない。他方で,リテラシーある方々から「あ,こいつら馬鹿だな」と思われてしまうような論理構成を公開することも避けないといけない。そういうバランスを考えた中で,もっとも根本的な部分だけをStatementとして抽出したものがWebサイトにあがっているメッセージです。およそ1年半前にこのサイトを公開してから,これまで識者の方々に上記のようなお叱りを受けたことがなかった分,今回の指摘は非常に新鮮であると同時に,自分たちの怠慢な部分が照らし出されたように思います。

私自身は,こういった政策提言を提言で終わらせず,実際にたくさんの仲間とロビーイングを重ねていく中で,国会議員や官僚,記者や有識者の方々からたくさんの指摘や批判を浴びることから,彼らに対して説得的な議論ができるように組織内で議論をする必要性は感じていますし,実際にしてきました。
が,これを全て可視化することは,不必要である以上に有害であるとも考えています。
「政治を全世代に開放するためになぜ被選挙権年齢から始めるのか」
「被選挙権年齢が引き下げられればそれで政治は全世代に開放されるのか」
などへの答えは,これを開示することで被選挙権年齢とは別の政治的な主張を暗に示す場合があり,これがロビーイングに不利益に働くことも当然ながら想定されるからです。

だから,可視化する必要がない部分は可視化しない。
あえて付言すれば,可視化せずとも理解できる層は,最初からターゲティングしない。

しかし,長々と書いて申し訳ないのですが,事の本質はここではありません。ここで真に問題となっているのは,G1カレッジ政治部門のOPメンバーが「ぜひこの動きにご協力ください」と言いながら,G1カレッジ参加者が納得のいくようなロジックをもって,具体的な協力プランを提示できていないこと,2015年度の政治部門メンバーにすらそのロジックを共有できていないことです(南藤くんが明言しているわけではなく,個人的な邪推です。が,これだと思います)。G1カレッジの政治メンバーにはしっかりとそこを開示し(公開ではなく),積極的に協力してもらわないといけないし,それをしてこなかったのは全てOPの怠慢ですので,そこに怒りを表した南藤くんのご指摘は真摯に受け止めなければなりません。だから,可視化すべき部分は,可視化すべき人的範囲で,可視化します。

なお,OPで日々動いている方々のためにも伝えると,彼らも日々議員や秘書さん,有識者からたくさんのご批判や疑問をぶつけられ,それにしっかり対応できるように議論してきています。批判的思考がないのではなく,現状その思考の部分を開示する必要性がないと誤認して開示しなかったために,誤解を招いてしまっているだけだと認識しています。彼らが何週間も何ヶ月も時間を使って行動していることには,南藤くんと同じく心から敬意を表したいと思います。


3.G1カレッジ来て違和感覚えない人いるのか問題

最後になりますが,そもそも論としての個人的見解を述べさせていただきます。仮にG1カレッジに来て違和感を覚えない場合,それは多様性の見出されない,非常に類似性の強い個人が集合したコミュニティなんだなと理解します。おそらくG1カレッジに来て違和感を全く覚えない人間などいません。運営の人たちがかなりいろんな思考(あるいは指向)をもった多様性のある人間を参加者として招待しているから。

何だったらSlushいってもモヤモヤするし,日弁連の勉強会いってもモヤモヤするし,自分がやった若者超会議でもモヤモヤしかしないし,JTのCM見て「人のトキを思う,JT」って言われてもモヤモヤします(最後のはどちらかというとOPのメッセージへのモヤモヤ感と同構造)。要は常にそういう理念と現実空間のミスマッチの中で,どれだけ後者を前者に近づけられるかの努力を自分がやれるのかでしかない。なので,それを実際にやろうとしている南藤くんは心からリスペクトする。大体,結構勇気いるはずなんですよね批判って。何も考えずに批判するようなタイプの人間もいますが,少なくとも彼はそんな人じゃない。

違和感の正体を多様性に押し付けているのではありません。そうじゃなくて,彼の書いた批判的な記事がG1カレッジ参加者の多くの人たちの共感を呼んだ(と理解している)ように,結構な人たちがいろんな違和感を抱いているはずなんです。
それは,運営が悪いのかと言われるとそんなはずもない。だって彼らは「批判するな」なんて言ってないし,なんだったら今回の同窓会を主催した中心人物である野邊さんは最初のG1で「遅刻はするし,ご飯は残すし,ゴミは置いたままだし,お前らクソだな」的に盛大に批判してきた側の人間(ちなみに今年も同窓会で同じこと言った)。毎年のようにFacebookグループページではカンファレンス後にいろんな方がいろんな指摘をしてきたし,それを運営側は止めようともしていない。1年間かけて,どういうコンテンツにして,どういうアクションをするか検討していく中で,毎年指摘される内容を運営が議論していないはずがない。(申し訳ないが,批判できないような空気を作ろうとは志向していないし,そのような「空気の支配」が生まれているのであれば,それはまさしく運営ではなく全ての参加者の問題である。その空気の変革を運営側に求めるのは筋違いです。)
今回の同窓会でも,「アカデミックの世界の方々がここに来ていないことについてどう思われますか」と結構運営に批判的な質問が出ました。これは運営の領域の問題なので,正しい指摘ですし,これを真正面から指摘してくれた方には感謝しています。
そういえば,たまたま出席の機会を頂いた今年のG1 Summitでも,やっぱり批判の重要性は失われていなくって,パネルディスカッションの中で真正面からぶつかっていく先輩の姿に非常に感銘を受けました。(「わが国と米国のリーダーは普遍的な価値を共有すると発表しましたが,申し訳ないが経済以外のどの普遍的な価値観を共有しているんですか」と言う的な。)

だから,僕もいろんなカンファレンス等に参加する一主体として,一緒にその空間を作っていくという意識をもって,空間を良くしていきたいと強く思います。南藤くんが勇気ある指摘をしてくれたんだから,「そうだそうだ」で次の空間を待つのではなく,いろんな参加者が「次はこうしよう」「次はこんなふうに」とどんどんこの空間を価値あるものに変えていく。200人程度の空間を変革できないままに,社会の何かを変えるっていうのは結構無理ゲーな気もしないでもない。きっとその「提案」の多様性がまた新しい刺激と不協和音を生み出し,次の「提案」へと移っていくんでしょうね。来年から自主運営になるというのは,そういうチャンスがさらに大きくなるということです。頑張っていきましょう。





図書館が無料であるように、自分の記事は無料で全ての方に開放したいと考えています(一部クラウドファンディングのリターン等を除きます)。しかし、価値のある記事だと感じてくださった方が任意でサポートをしてくださることがあり、そのような言論空間があることに頭が上がりません。