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遠ざかりたい理由──九段理江『東京都同情塔』(新潮社)を読んで

〈日本人が日本語を捨てたがってるのは何も今に始まった話ではない〉
『東京都同情塔』(九段理江)のこの一文を読んで思い出したのは、ある日本語学習者に試験対策の問題を提示した時のことだ。

*中村課長は仕事に対していつもシビアだ。

➀弱気だ ②柔軟だ ③厳しい ④注意深い

シビアの意味を問う、日本語能力試験最上級N1レベルの(馬鹿げた)問題。ヨーロッパの国の出身である彼は即座に➂と答え、そして笑った。「なんで英語で言うの?」
わたしはとっさに「日本人は日本語を格好悪いと思っているところがあって」「社内の公用語を英語にしている日本の会社もある」と伝えた。彼は「そういう会社があるのは知っている。でも分からない。日本語でいいのに」と本気で不思議に思っているようだった。いや、思っていた。

『東京都同情塔』では(主要登場人物である牧名沙羅の思考として)カタカナ語への言い換えを〈不平等感や差別的表現を回避する目的の場合もあり〉〈語感がマイルドで婉曲的になり、角が立ちづらいからという、感覚レベルの話でもあるのだろう〉と書かれている。
牧名沙羅はこうも口にする。〈私には未来が見えているんだよ……日本人が日本語を捨てて、日本人じゃなくなる未来がね〉。また物語の後半部分では、アメリカの(三流)ジャーナリストがこのように(テキストで)述べる(問いを連打する)場面がある。
〈日本語を知らない私に、君たちの言葉の秘密を教えてくれないか?〉〈日本語とは縁もゆかりもない言語から新しい言葉を次々に生み出して、みずからの言葉を混乱させる理由は何なんだ?〉〈シンパシータワートーキョーと、トーキョートドージョートーのあいだに、何があるというんだ?〉

わたしの答えはこうだ。「何があるかって? 劣等感ですよ。自国の言葉に対する劣等感」「〈みずからの言葉を混乱させる理由〉そして〈君たちの言葉の秘密〉もすべてそこに繋がっています」「日本語を美しいと日本人はよく口にする。しかしそうでも言わないと根底にある劣等感を糊塗できないのです」

自分の口から出た「日本人は日本語を格好悪いと思っているところがある」という言葉の真実味を、わたしは疑わない。その劣等感の「根拠」はなんだろう? 日本という国でしか通用しないという事実? 自国以外で話されない言語を使っている小さな国の人たちは同様の劣等感を持っているのだろうか? それとも日本語しか話せない自分たちの小柄な体格?(意外とこんなところにあったりして? いやマジで)
牧名沙羅が思考するように、角が立たない言い方を日本人は好む。直接的な物言いを避けたがる。何かと言うと「あ、ちょっと……」とお茶を濁す(濁す! ちゃんと自覚しているのですよ)。最近よく言われる「卑屈語」──「お伺いさせていただきたくお願い申し上げます」のように、過度に敬語や美化語を連ねた言い方──はまさにその発露だ。
言いたいことを直接的に表す言葉を「つい」遠ざける。遠ざけて安心する。この「癖」こそが日本人らしさであり、ひいては日本語らしさなのだと思う。そう、〈日本語とは縁もゆかりもない言語から新しい言葉を次々に生み出す〉のは、日本語から遠ざかりたいからなのだ。
捨てたがっているというより、日本人は日本語から遠ざかりたがっている。道具としては使うけれど、肝心なところでは置き換える。迂回する。

すごく日本人は、日本語っぽい。

#芥川賞 #東京都同情塔 #日本語

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