見出し画像

もやついた会話

俺1「もう年末だな。今年はどうだった。」

俺2「どうだったとはいきなりだな。まあ良くもないが悪くもないという感じだ。来年は少し動きのある年にしたいな。いつもそんなことを言っている気もするけどな。」

俺1「しかしなんだ、職場ってところは相変わらず妙だ。普段互いに挨拶もしねえのに、年末年始だけかしこまって挨拶するんだから。」

俺2「まあ、けじめということだろう。コミュニケーションのひとつとして、いいんじゃないか。」

俺1「普段のコミュニケーションを円滑にしてもらいたいもんだがな。」

俺2「そうはいっても普段はお前だって仏頂面で、とても他人とコミュニケーションを取りたいようには見えんぞ。」

俺1「挨拶というのは果たして意思疎通なのか。儀礼に近いのではないか。コミュニケーションのあり方がおかしいんだよ。言わなきゃわからないという点と、言わなくてもわかるだろうという点が奇妙に入り混じっているところに職場組織の意思疎通のおかしさがある。だから本当はこう思っているのに、みたいな感情が入り乱れてめちゃくちゃになる。それが日本の組織一般に通じることなのかどうかわからんが、まったく気が滅入る。」

俺2「そういえばかつて、職場の人間に年賀状を送ったら、このような虚礼は不要であるという書き込みとともに突き返されてきたことがあったな。そういえば『受け取り拒否』というハンコが押してあったが、あれは郵便局に備え付けられたハンコなのだろうか。」

俺1「真の礼儀も虚の礼儀もあるかい。儀礼は儀礼だろう。年始の挨拶が不要ならその旨を事前に告知しておけばいいのにな。まあ別に面白い体験だったからいいのだが。それはともかく、お前が目指す動きのある年とはなんだ。」

俺2「深い意味はないな。引き続き、やりたいことをやるくらいのことだ。人生の折り返しだということを痛感して、残りの人生をどうするかという問題意識のもとに、文章を書きなぐることがやりたくてこのnoteなんか始めてみたわけだが、質はともかく長く続けてみたことで、少しずつ世の中との関わりができてきた気がする。しかしまだまだここ10年か20年ほど人生をサボったことは取り戻せていない気がするんだよな。3の不足分を取り戻すためには5以上の努力をしないといけないと考えている。これを5年ほどで果たして取り返せるかどうかということだな。今から5年経ったらもう50歳が見えてくるんだ。なんと恐ろしいことだ。」

俺1「おまえの危機感はわかったが、そういう真面目くさったよそ行きの言葉は気に入らんな。本当はナマクラでいい加減にやって、楽して生きたいくせに。言葉だけじゃないか。実際このところお前は、noteの投稿もけっこういい加減になってきている気がするぜ。」

俺2「まあ、言葉だけ立派で大したことはしていないというのは認める。ただし、楽して生きたいというのは少し違うな。数年前に比べれば割と読書はしているし、細々とメモは作っていて、断片が膨大な量になっているのは事実だが、まとまっていかないのだ。つまりはこらえ性と集中力がないだけなのだ。物事を知らないままに放置しておくのは少し気持ちが悪いので、気になったことは知っておきたくなって調べる。しかしすぐ別のことに関心が移っていくから、体系的に学べないわけだ。誰だってそんなところはあるだろう。」

俺1「コツコツやることは重要だろうな。今後は、少し系統的に勉強してみたいとは思っているのだろう。」

俺2「まあそうだが、そこまで意気込みが強いわけではない。」

俺1「またそんな天邪鬼なことを言う。素直なだけでは生きにくい時代だが、自分の中で小さくてもいいから目標があるといいな。」

俺2「自分の不遇を環境のせいにするとかの恨みごとはあまり言わないように気をつけたいな。SNSなどで恨み節を見ることが非常に多くなったから、そういうものを反面教師にしている。そんな現象はどこにでもあるんだよな。例えば実家に帰って憂鬱なことのひとつは、父親がテレビ番組に向かってマウントをとるような発言をしたり、難癖ばかり言うことには困る。母親にいつもきつく言われてコテンパンにされているから、そんなことでしかストレスが解消できないのかもしれん。本人は愚痴っている自覚がなくて、愚かなテレビ出演者に軽妙に『突っ込んで』いるつもりなのだろうが、露骨に自分の人生に不満があることが浮き出てしまっている。気の毒だとも思うが、あまりにも辟易して耐えがたいことはある。まあ俺もこんなところで愚痴っているのだから結局は似たようなものかもしれんね。」

俺1「与えられた条件のもとで最善を尽くすんだな。」

俺2「ああ、そんなところだな。劇的に何かを改善するには時間が必要だ。そんなことで、今年ももうすぐ年が明けるな。」





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?