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男爵夫人の「星から降る金」が人生のあらゆる段階で衝撃をくれる〜ミュージカル『モーツァルト!』



劇場内は、異様な緊張感に包まれていた。幕は開いた。でも、これがいきなり見納めになるんじゃないか、最後の出演になるんじゃないか。

2021年4月24日土曜日の昼12:30。東京・日比谷の帝国劇場のことである。演目はミュージカル「モーツァルト!」。

この日の主演は、昨年のNHK朝の連続ドラマ小説「エール」で“プリンス久志”として人気を博した山崎育三郎さん。全国的な知名度を誇ることとなった彼の、ドラマ後初主演作であることもあり、客席は満席だった。私はその観客の1人だった。

翌日からは東京都含む4都府県には緊急事態宣言が出される。1月からの宣言下と異なり、劇場も1000平方メートル超の施設は休業要請、未満の施設は休業協力依頼だという(東京都「新型コロナウイルス感染拡大防止のための東京都における緊急事態措置等」令和3年4月23日 より)。

ふと思う。この「モーツアルト!」という演目、ミュージカルオタクを自認する私にしては、観劇回数が少ない作品だ。2002年の日本初演の初日を観てから、公演が決まるごとに1回か2回観てはきた。通算10公演くらいだろうか。しかし、ほかの演目ではおそらく20数年で100公演観たというものもあるのに比べて少ない。しかし、なぜか印象的な“事件”があったり、心を打ち抜かれ忘れられない衝撃を受ける割合が極めて多いのが「モーツアルト!」なのだ。もちろん、この4月24日のような異様な状態など、100年に一度と言われているパンデミックでなければ起こり得ない。しかしそれは偶然の産物である。

では、なぜ心を奪われる衝撃が起こる割合が多いのか。
それは、「モーツアルト!」に出てくる、ある歌に原因がある。

“愛とは 解き放つことよ
愛とは 離れてあげること
自分の幸せのためではなく
涙こらえ伝えよう

夜空の星から降る
金を探しに 知らない国へ
なりたいものになるため
星からの金を求め
一人旅に出るのよ”

これは「星から降る金」という曲の歌詞の一部である。
(↓これはウィーン版)

18世紀後半。ザルツブルグの宮廷楽士である父レオポルド・モーツアルトの指導のもと、5歳にして作曲を始めたヴォルフガング・アマデウス・モーツアルトは「奇跡の子」と呼ばれ、幼いころから演奏活動に忙しい日々を送っていた。

青年になった彼は、もはや奇跡の子ではない。才能はあるも、天才と呼ばれた幼少期ゆえなのか、自由奔放な言動で音楽活動もうまくいかず、宮廷に仕えることもままならない。一方で父親のレオポルドはこの自由な息子に「天才はこんなことではならない」と、子どものころのように自分の意のままにしようとするものの、「もっとありのままの自分を見てほしい」というヴォルフガングとは相容れない。

そこに、彼の才能を認め、ウイーンへ出て才能を開花させるように説く男爵夫人が現れる。彼女が歌うのが、この「星から降る金」である。

2002年の初演時、私は転職するかどうか迷っていた。出版の流通を担う取次会社にいたものの、本をつくってみたいという夢を捨てきれず、こっそり転職活動をしていた。そして、ある編集プロダクションに内定をもらっていた。でも、当時いた会社も大好きだったのだ。

そのときにこの曲を聞いた。

「なりたいものになるため 一人旅に出るのよ」

これは、私に語りかけているのだろうか。このタイミングにこの歌詞。客席で号泣した。そして、思い切って転職することを心に誓った。そして、翌年1月、転職した。

そして、今年の公演。実は冒頭に書いた4月24日は、今回の公演で2回めの観劇だったのだが、1回めの観劇のこと。

10歳になり、思春期に一歩足を踏み入れた我が子が、どうも不安定である。昨年の秋は、学校には行けても教室にも行くのが難しい時期があった。親として、どうすればいいのだろう。でももう赤ちゃんではない。手とり足とりではなく、ある程度は自分が納得して一歩踏み出す何かを見つけられるようにしてやるのが、親の勤めではないか。そんなことを考えた時期があった。幸い、子どもは今では教室に元気に通えている。

そして、4月にこの曲を聞いた。

「愛とは 解き放つことよ 愛とは 離れてあげること」

そうか。愛とは明らかに与えるだけではなく、離れて自立を立つけることも愛なんだと、急に自分に語りかけられているように思い、またまた客席で号泣した。これからは成長とともに子どもは親から離れて行く。離れて行くのを見守るのも愛なんだ。

ミュージカルが好きな人は、何度も同じ作品を観に劇場に向かう。「また観るの」と言われても。映画なら何度観ても何も言われないのに、とは思う。

しかし、この人生のいろんな段階で、たまたまそのタイミングで上演される舞台。いつでも観られる映画とは違い、そのタイミングでしか観られない。そのタイミングに、違った歌詞で場面で、違った感情を抱く。そして、作品をより深く知ることができる。

さて、4月24日が終わりになるかと思われた公演。5月6日が東京公演千秋楽の予定が、4月27日で打ち切りとなった。24日のカーテンコール、主演の山崎育三郎さんは、

「開演前は方針が見えず、この公演が千秋楽になるんではないかという気持ちで舞台に立ちました。途中であと3日公演できることになりましたが、感染防止を徹底して公演してきたスタッフ、出演者のこと、そして観劇できなくなった皆さんのことを考えると、本当に申し訳なく…」

といったことを、嗚咽を交えながら涙ながらに話していた。劇場中が涙に暮れた。

今回は、緊急事態宣言発出2日前というタイミングが重なり、舞台にかける人たちの覚悟や思い、舞台を愛する人たちの感情、客席も作品なんだということを、身を持って感じた。もちろん劇場に通えば感じるものも、ここまで鋭く突き刺さってきたことは、観劇人生30年のうち初めてである。辛いことばかりだけれど、また新たな発見があった。

同じ作品だからといって、いつも同じではない。同じなはずがない。だから、劇場通いはやめられない、のである。

そして後日談。

緊急事態宣言のため、大阪・梅田芸術劇場の千秋楽は山崎育三郎さんヴォルフガング回(6月6日日曜日)が無観客に。古川雄大さんヴォルフガング回、大千秋楽(6月7日月曜日)は観客ありということになった。

しかし、大きなプレゼントがあった。ライブ配信と数十時間のアーカイブ配信である。もちろん観た。子どもたちと一緒に。最高だ。2日で3回も公演が観られた。千秋楽ゆえに、カーテンコールではキャストや演出の小池修一郎先生のご挨拶付きだ。変わらず飛ばしまくる山口祐一郎さんの挨拶も最高。千秋楽なんてふだんは絶対チケットがとれないものだから、オタクとしてはとても嬉しい。

悲しいと嘆いてばかりでも仕方がない。楽しめる機会はめいっぱい楽しまないと。

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