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生きている者たちのために亡き人に手を合わせる

階下にに住んでいる母からインターホン越しに、子と孫たちに亡き父に手を合わせに来て欲しいと言われた。昨日は元旦を共にしただけでそういえばチーン、南無〜ってしてなかったなと思いつつ手を合わせに行った。

歳を重ね、子供の頃から悟り気味というか、冷めた子供だったのに、更に輪をかけている昨今、死というものに冷めた見方をしてしまう。自らも徐々にそこに近づいているからそうしないとやっていけないというのが本音かもしれない。

死んだ者への弔いって、ホント生きているもののためにするものだなあと考えさせられる。もちろんそれは、「死んだら何も残らない」という前提においてのこと。何も残らなければ、「顔見せてくれたらお父さんも喜ぶから」と言う言葉が腑に落ちず、けれども、頻度は差し置いてもたまーーーには墓参もする。

なぜか後ろめたい気持ちになって行かなきゃと感じたりするのだけれど、それはどこかに、墓石の向こうで、遺影の向こうで死んだ人が見届けていると心の端っこの方でほんのちょっとでも感じているからだ。

墓に入れ、弔い、そして墓参することで良いことをしていると自分自身を納得させている。物理的にはどこにも存在せず写真の中でしか確認できないのに。

まあ、自分が遺影の向こう側に立ってみないとわからないので無謀なことは言わんけど、自分が死んで骨がゴミ箱に捨てられたとしても多分何も感じられないし、何も変わらない。そんなことを聞いて酷いっ!と思うのは生きている者だけであろう。

人の死は物理であり、事実なのに、その先は精神であり宗教なのだ。それを心の支えに、や、いつまでも心の中で、とすがるのは誰を隠そうそうしたい生きている人たち。死への教えは、気持ちの矛先を自分の中に見い出すように仕向ける。今やそれが一大経済でもあり、国を一体にする一方で、戦争を仕掛ける理由づけも生んでしまう。宗教に限らず「信心」たるもの、時には勾玉に大金を支払ってしまったり、Appleへの貢ぎを止めることができなくなったり、あまねくネットにエネルギーを注ぎ込み釘付けになってしまい廃人と化したり、心に秘めた絶対への気持ちの拠り所にしてしまっている。

閑話休題。

死んだその先はどんなに準備をしていようと、何を望もうと、死んだ者には何もできない。生きている者たちだけがその者も死を自分たちなりに解釈していくだけだ。

生きていく者たちも自分たちの死後にはそうして欲しいからと墓に参り、仏壇で弔い、その物理のない形を守り続けている。自分が反対側に回った時にはそれはもう感じられるものでもないのに。でも、万が一に感じられたら、してなかったことを悔やみ酷い仕打ちが待っているかもしれないと言う怖さに怯えているからだろう。

何も、墓や経を唱えることだけが是ではない。心の中で思い出すだけでも立派な弔いである。そして、今日も皆、生きている者たちのために亡き人に手を合わせている。

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photo by http://www.japanexperterna.se

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