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格闘ゲームで語る写真の手癖の話

どうも僕です。

何事も手癖ってついてくると思っています。
基本的に思考が膠着化する要因は成功体験/失敗しなかった体験で、これが社会の膠着の根本なわけですが、リカバーの効きづらい日本社会だとワンミスでデスコンボってケースが多々あります。会社なんかやってる僕からするといつ自分が即死もらうかわからないわけで、そうなると資産を蓄積して保険をかける、みたいな思考になるわけで、これって社会構造上問題だよなあと思うわけですが閑話休題。

写真をやっていてこの、成功体験/失敗しなかった体験って考えたほういいよなーってのが幾度かあったので、同じように悩める僕らを救済できれば程度の軽い気持ちで文章にしてみます。

注意:僕のやっていた格闘ゲームの時代はフレームという概念が一般に出始めた頃で、僕はその数学的な要素が嫌で覚えすらしませんで、感覚で遊んでました。よく友人にお前は反射神経だけで動いていると言われましたので、そういう奴が書いている文章だとご理解ください。

そもそも手癖って

僕が手癖を意識したのは数十年前、格闘ゲーム全盛期です。
地方にもゲームセンターがあって、そこには大型筐体をはじめシューティングゲーム、そしてゲームセンターを支えたであろう格闘ゲーム、音ゲーがぎっしり並んでいた時代があります。学校サボって通っていたあの頃、幸いにして僕はなかなか上手い方らしく、地方の一角で強者グループの一員でした。

強者グループだとまあ人気のゲームで強くなるために対戦しまくるのですが、その中で行動のパターン化を認識したことが何度かあります。こうきたらAで返してB、みたいな。一度これで成功すると、不思議と類似した状況でも同じ感じで動くんですよね。僕の言う手癖はこれ、成功体験のパターン化です。

手癖は悪いことじゃない

これが適正解の場面だったらいいんです。
というか大体はこれで正解です。現代の格闘ゲームだとフレームに対して正解を差し込む、みたいな感じなんですかね。僕がやっていた当時は、これだと早いから間に合う、これだと間に合わない、みたいな抽象的な感覚でした。それもそのはずで、そもそもフレームというデータが出始めたのが多分SEGAのバーチャファイター2あたり。情報は月刊誌で、詳細な情報はムックに頼るような時代です。感覚で返し、感覚で失敗し、掴んでいく。結果身につくのは手癖なわけですね。

さて問題。それが最適解ならいいんです。システム上の最適解だったらね。
無数の選択肢があって、その後への繋ぎ、展開、差し合いも予測しての選択になるわけです。一つとれば他を捨てる、この組み立てが面白いわけですが、この選択を挑戦的に行うのはそれなりにリスキー、というか一定程度以上強くなれない。あーここはこうねーみたいな、反射反応?ある種、成功体験だけで返しているので、例えばAに対してBが最適、だけど最適ではないCが手癖、みたいな。Cを手癖にしちゃうとBを試すこともしない、失敗しない体験ですね。

格闘ゲームは、差し合いやテンポ、システムの中で一応の最適解があって、それをどうトレースするかが基礎になるんだと思います。そこに人間同士の駆け引きや読み合い、反応速度が影響しあって、最適解が薄まっていくイメージでそれが楽しい。

さて、話を写真に戻すと、写真は正解の定義がなく、ある一定の「美しさ」を明示するための手法はあっても、それが答えではありません。ある意味で手法を守らなくても成立するのが面白いところです。年単位で撮っていると、自分はこの置き方好きだなーとか、この角度多いなーみたいな感覚が出てくるかと思います。まさにそれが手癖なわけですね。

手癖の問題

別に良いんじゃね?みたいな感じの締めにしましたが、あえて格闘ゲームと対比させたのは理由があります。システム上正解がある手癖と、正解がない手癖では質が全く違うのです。

私自身が一番この手癖を感じるのが、角度問題です。好きなんですがしっくりこない、また撮ってたかー、みたいな写真。特に自由なはずのスナップに多く、ただ撮っているだけ、みたいな写真を量産しています。特に写真で悩んでいる時期は多い。
ポートレートでも多いですよね、正面ヨリでパシャってるパターン。瞬きや角度などで変化はありますし枚数保険にしたいけど、大きな変化はない。なので家に帰ると1枚残してバタバタと捨ててしまうやつ。

この原因が何かなと考えてみると、一度そのやり方で正解したことがあるから、または失敗したことがないからです。SNSで言えば妙にいいね数が多かった、展示に出したらコメントをたくさんもらえた、撮ってみたらなんかいい、などなど。
つまり、後についてきた評価が正解だと思い込んでシャッターを切っているわけです。これを最適解と認識するわけですね。もちろんそれは嬉しいことなのですが、これに振り回され始めるとそこから出れなくなります。枠すら認識できないまま自分の個性だと認識始めたらもう末期。

手癖から解放されるために

格闘ゲームなら、認識してしまえばある意味で簡単です。差し合い中に思考できるまでやり込むとか、指が別の選択肢を取れるまで練習しまくればいい。

問題は写真、あるいは表現の場合。
上記の通り、写真の手癖の怖いところはそれが癖なのか個性なのか分かりづらいところで、かつ、正解そのものは自分の中にしかない。
自分の中にしかないから、それが安定で撮っているのか、欲で撮っているのか分かりづらい、これが今回のNoteの本質です。

僕らのバイブル、ブルーピリオドでもありましたね。
予備校時代に1位になると芸大落ちる的なあれです。
成功体験が縛りである的な。あれほど過酷な話でもないのですが、特にSNSジャンルで勝負しているとそこに傾倒してしまう気持ちもわからなくはないです。

さて、では手癖を解放してみよう

物理的にね。
まずは単焦点を用意して焦点距離を変えてみましょう。
これは結構効果があって、35mmでこういう置き方して納得しても、28mmだと違和感あったり、望遠だともちろんこうかはばつぐんだ。

たまにズームレンズでスナップしてるんだけどしっくりこないシーンがあるんですがこれなんですね。ズームだと自分の心地いい焦点距離に持って行きがち。便利な分だけ、意識して距離を変える、きる、みたいな感じにしないといけない。

ので、単焦点にしちゃえば画角は強制的に制限されるわけで、同じ角度で撮ってもあれええええってなるケースが多々あります。単焦点は構図が上手くなる、みたいな伝説がありますがこれなんかなーとかとか。

解放してみよう、その2

あとは定期的に写真を見返す、という作業。
実はわたし、SNSに生息しているためあまり写真を見返すという作業はしません。それよりも今日の投稿、明日の撮影のために毎日を呼吸しているような奴でして、過去なんざ振り返らねーぜ、というかそんな余力がねえぜ!みたいな感じでした。
以前、合同展、

開催にあたり、写真を見返してみたんですね。
人間、認識するしないってのは結構大きくて、ふらっとやっていることが意外と認識できていなかったりします。特に写真だと、ある意味で自分の中にある美意識との対話なわけです。問題はそれが言語として対話するわけじゃなく感性ベースでの対話なので、そこ慣れてないとそもそも対話が成立していないケースも多々あるわけで。
そういう場合に、大体手癖が発揮されてる気が私はします。会話がそもそも成立していない、上滑りしているやつ。ビジネスでもありますよね。
見直してみたら、あーここで上振るのがいいよねーとか、左がさーとか色々あるわけで、そこで手癖を認識したわけですが、ここからが次の本題この癖自体が強みになるケースもあります。

手癖を昇華させるまで

さて、手癖にはあなたの好きが詰まっている場合があります
どういうこと?と思うでしょう。ですが、ある程度、心地よい、美しい、楽、何らかの気持ちがあって手癖が実行されているわけです。格闘ゲームの例えからもお分かりでしょう、そこに成功か失敗していないがあったからトレースしているわけです。
問題は詰まっているかのが何なのかは各自のゴールに依存するというところで、上で出したワードで分析すると、

美しい>いいんじゃないでしょうか。自分なりの美の感覚が手癖になっているならそれを突き詰めるのも道でしょう。
心地よい>快的な感覚ならいい気がします。別に美しさだけを追求するわけじゃないですし、心地よい写真は見ていて気持ちいわけです。
>気持ちが楽でしょうか?それもできた写真的な意味合いで?それともシャッター的な意味合いで?

結構含みを持たせて例を挙げましたが、僕は一時期「楽」で手癖になっていた時があります。いつの頃からシャッターが重く感じるようになり、しんどいを連呼していました。某stさんに話したら「真面目か!」って笑われましたが。
で、その時期の写真、見事に角度やものの捉え方が一緒です。同じような被写体や形を同じように撮影していた時期で、これは楽に逃げていたんだよなあと思いました。シャッターが切れない、楽な方で切ろう、これなら安心だ、という心理ですね。

ちなみに、上の焦点距離変えよう説を実行したのはこの頃で、宮城弁で言うところの「いずい」こといずいこと
この時期、スナップの撮り逃しが嫌で、高倍率ズームを持ち運んでいた時です。何でも撮れるんですが、同じように撮るんですよね。これに気づいて、思い切ってM11に単焦点だけを持ち出すようにしたところ、見事にこの感覚は無くなりました。
SNS伸ばしたい>初心者スタートゆえに写真のストックがない>ストック作らなきゃ>撮り逃しなくしたい>ズーム最強、みたいな思考。結局そこに好き美しいも詰まってなかったわけですね。

そして、M11でブレた写真を量産したあたりで、何となく好きを自覚します。僕は結構ブレ、ボケ写真も平気でSNSにあげます。僕の中の定まらない感、ファインダー越しでわからない世界の感覚みたいなもののを見ている気がします。他の方が失敗写真と見ていても、僕には僕なりの好きがそこにあるわけで、これかもなーとか思って色々試しました。正解はまだ辿り着いていませんが。
なじみの被写体さんなんかは、カメラ降り出すとまたやり出したよと思っていることでしょう。つまり、これは好きが詰まっている手癖なんですね。

成功したと失敗したは違う

よく二律で語られる成功失敗。これを二律で語ることはそもそも罠だと思っています。
そもそもこの二律、一面で論じられるケースが多く、ただ失敗してないだけなのか、成功しただけなのか、あるいは大失敗したのか大成功したのか、そこに付随する情報で角度が山ほど変わるワードだと思っています。
それは関わったものの属性によるわけですが、例えば公務員さんだと与えられる仕事上、失敗しないことが求められるわけで、そこで失敗しなければ大成功です、キャリア上はね。一方でこの公務員の方が個人として、何かまちづくりや志みたいなものがあって挑戦したとする。結果、組織上は失敗と言われるかもしれないし成功となるかもしれない、そして個人としてみれば挑戦しただけで外野の僕は大成功だと思うわけです。ご本人がどうかは分かりませんけど。

上のスナップの例なんかはそうで、手癖で失敗しないだけの好きでもない写真を量産している僕と、失敗してもいいから焦点距離変えて好きっぽいのを発見した僕。
ここに大きな差がありますが、きっかけは手癖に気づいたこと。
より深く考えると、手癖に何が詰まっていたかを考えたことにあります。
別に楽マインドで撮影してもいいわけです。楽がゴールだったら。
そう、ゴールに対してどうか?というのがこの問題の本質です。
失敗しないだけで安心を求めての手癖には成長はありません。でも好きが詰まっている手癖には、自分の中のゴールのかけらが詰まっています。

普段の撮影から少し離れて、自分の手癖を見直してみるのもいいかもしれませんね。
以上です。
良い写真ライフを。


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