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Q2:なぜ僕らは3次元に固着させられているのか?

ムズイのは、ルートに慣れていないせいかも

我思う、ゆえに我あり。

デカルトをつまでもなく、どーにもこの世界は謎だ。

あなたはこう思うかもしれない。
この世界は、あなたの想念が描いた世界であって、それが証拠にあなたがそれを見ない限り、世界は存在しない。
ゆえに、世界は「自我」によってはじめて存在する。

いきなり、形而上的な切り口で面食らうかもしれませんが、この問題はケッコー奥歯にものが挟まっているような釈然としない問題かもしれません。

なぜなら、あなたがいてもいなくても世界は厳然として在るからです。

「そんなのかんけーねー」は、あなたの「エゴ」の言葉であって、世界は依然として戦争を繰り返し、貧困はなくならない。
このことは、おそらく僕だけでなく多くの人が、そしてあなたも直面せざるを得ない現実でしょう。
違うでしょうか?

その前に、

そもそも、

あなたは、あなたですか?
(あの、気が違ってるんじゃないですよ)

あなたは、ご自分のことを多分こうお云いでしょう。

「僕は」
「私は」
「俺は」
「あたしは」
「あたいは」
「拙者は」
「それがしは」
「吾輩は」
「まろは」
「自分は」
「余は」
ちんは」
「小生は」
・・・

では、だれがそう呼んでいるんでしょうか?

「・・・ったってー君、この俺に決まってるじゃないか」

お分かりと思いますが、自分を「俺」と言っている主体は、別にありますよね?

肉体の「俺」を通して、そのものは喋ったりなんだりをしています。
この意味での「俺」はアバターですね。

「われ思う」の本体は、ここにいる「われ」ではないわけです。
(日本語がよく主語を省く意味もここですね)

その本体なる「あなた」は世界を創ります。
しかし、同様に、その秘密を知る支配層も世界を創ります。

それが世界のカオスであり、せめぎ合いです。

5次元に行く前(誰が行くって言った💢)に、3次元を知らなくてはなりません。

あなたは3次元を知っていますか?

知ってるようで知らない3次元。
ああ悩ましくも生々しい3次元。

「フーム、3次元ネー」

誰しもが、口をそろえて、それは宅配便の箱のような幅・奥行き・高さからなる個体だと言います。
しかしそれは、単に感覚器官を通して見た「相」です。

3次元とは、次元の連続体の中で、最も求心性の極にあって、最後の相である(よって、1次元、2次元というものは単にその部分単位だから3次元に含まれる)。一般にそれを「物質」という。それは固く、重く、密であり、4-5-6~次元と高次元ほど薄く、軽く、疎になる。

多分、僕の表現力ですと、上記のアブストラクトな説明で精いっぱい💦。

さて、それは「外部宇宙」のお話でして、宇宙には「外部」があれば「内部」もなくては二元論になります。
その内部宇宙というものは、僕らの内側(精神と呼んでいるもの)にあります(この「精神」や「神」だとかが出てくると面倒ですね)。
ま、それは一旦脇に置きましょう。
とはいえ、そこへ入り込むための手掛かりはないのでしょうか?

さー、ここで登場するのが、五感というキーワードです。
実は、これこそが3次元を感知するための機能です。

視覚
聴覚
触覚
味覚
嗅覚

感覚は、ときに裏切る

これらは、すべて肉体(3次元)の器官ですね。
つまり、

3次元専用、3次元御用達、3次元ご予約済み、

な点に注意したい。
言い換えれば、これらの器官(五感)に頼っていてはどこまで行っても3次元を一歩も、半歩も超えることは不可能なわけです。

もっと言えば、僕らを3次元に押しとどめている原因は、この五感にあります(あるいは、五感がすべてだという思い込み、錯覚にあります)。

これを指して、ニーチェは「重力の魔」なんて言ってるんじゃないのかなあ、と僕は思います。

【解説】①剣によって立つものは剣によって亡ぶ(第1判断力)→②感覚によって判断するモノは快楽によって亡ぶ(第2判断力)→③感情によるモノは優柔不断におちる(第3判断力)→学術によるモノは分析に迷う(第4判断力)→社会主義思想は個人を見失い、大いなる相剋対立、闘争を生む(第5判断力)→思想的、精神的指導は、おごれるモノと、迷信と妄信の徒を生む(第6判断力)
宇宙の秩序は、上6段階の低判断力を統一コントロールし、平和と自由と正義への無上道を示す(第7判断力)。万人共通のネガイは自由(健康)と幸福(平和)である。その願いの実現のために、万人は自己の判断によって各自の道をえらぶ。その判断に7つの段階がある。その第1ないし第6の段階は必ずコト志に反し、終局においてネライ(自由と平和)の反対の極(不自由と争い、対立)に到達する。それら6段階を経て第7の判断──唯一無双の世界観に到達するモノのみが初めて自由と平和と正義の世界(幸福──第7天)を望見する。≪後略≫=桜沢如一『病気を治す術、病人を治す法』(PU医学原論)1972巻末「付録」より

上は、桜沢如一の「判断力」の発生学的な図表ですが、お気づきのように「感覚的判断」は下位のところに位置しています。
これは、世界を僕ら人間がどのように認識するのか? というセンサーの羅針盤です。

より光へ

ちなみに、現代人の90%以上はこのうちの第二判断力(感覚)で生きています。以前にも書きましたが、それは極めて「異常」なことです。
家庭や学校の「教育」から始まり、社会制度が「そうせざるを得ない」環境を作っちゃいましたからね。日々畳みかけるように流れてくるちまたの情報などは、この第二判断をさらに強化することに一役も二役も買っているんですから、人間不幸になるばかりです。

勘違いしがちなのが、低い判断力を「否定」はできない、ということ。
なぜなら、それは「生命」だからです。むしろその判断を「堪能」し、詰まらなくなったら次の上位の判断の世界にスライドする、といった体です(しかも下位の判断も尊重する)。

このことを書こうと思い立ったのは、先に投稿した「内へ、さらに内へ、そして光へ【心身の神癒】」を書いていて、「おや? イエス様はずいぶんとキツイ表現をされるんだなあ」といった感慨が湧いてきたからです。

つまり「感官(五感)は悪魔だ」的な表現。

確かにそうですが、そこまで言わしめる力こそ、「愛」の為せる業なんでしょう(愛は直截的で厳しいものです)。
一般に悟りへの道に「感覚」は大いに妨げになるといった認識が、「修行」や時に「難行苦行」になったわけです。

六根清浄・・・感官は滅却できないよ。

上の図表の1から6までを、今風に「マトリックス」といいますね。

それを「次元」で表現すれば、さしずめ第1、第2までが3次元を、第3~第6までが4次元と言えるかもしれません。
さらに、西洋流(神智学的)に言えば、第1、第2が物質界、第3がエーテル界~アストラル界、第4がメンタル界、第5がコザール界、第6がブッデイー界と言えるかもしれないし、ずれているかもしれない。
第3~第6はすべて肉体(物質)を離れており、第7はすべてを包含する。


さあ、幕はあがりました!
「闇」を認識したら、もう結構。
僕らは、喜び、光の方向へとまっしぐらです!
自分がどこの段階にいるかが分かれば、あなたはどこにいても第7です。
なぜなら、同じ次元に埋没している者に、決してそれは見ることができないからです。

あなたは、「あなた」ではありません。
あなたは、あなたのあるじです。






東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。