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アセンション詐欺とアセンション【嘘に覆われた真実】

これは、いつものように単なる個人的な「覚書」です。
だから、決してあなたに理解してもらおうという野心も下心もありません。あなたに同意してもらうのが目的ではないので、寄り添ったりとか妥協したりはありません。
また、あなたを批判するものでも、私が「○○だ」という結論を出そうというのでもありません。

ただ、私はあなたに問いたいのです。
つまり、それは私の主張ではなくサジェスチョンにとどまります。
「そういう見方は可能でしょうか?」
「それはどういう意味を持ちますか?」
を、聡明なあなたで自問自答していただきたいのです。

断定的に書いていますが、なぜなら(その世界は)オールオアナッスィングだからです。
YesかNo以外にありません。
正しくなければ、それは間違いです。
そこに「少しの正解」とか、「部分的には正しいが・・」とか、「ある意味ではそうともいえる」「漸進的に正解に近付いている」などの分析的なジャッジは存在しません。

なぜなら、その世界こそは「無限の自由、絶対の正義、永遠の平和」の世界(絶対界)だからです。つまり、今私たちが見ているこの世界と真逆の世界のことです。

その世界は、そこにある字句がほのめかすように、本来両手を広げて私たち愚かな人間を「無差別の愛」で受け入れてくれそうに思われます。
事実、そんな熱病に浮かされたような方々も少なからず見受けられます。

しかしながら、そこに入るということは、とりわけ現代人にとって「らくだが針の穴を通る方が、もっとたやすい」ことです。
狭き狭き門です。
なぜなのでしょうか?
なぜそのようなことになったのでしょうか?

そうであれば、慎重に注意を払わなくてはなりません。

もちろんここにあるのは、私の判断ですから、正解でも不正解でもないかもしれません。ですから、あなたはあなたでそれの是非を決定しなくてはなりません。

私たちが生きていくうえで、とかく仕事や生活やその周辺の雑事が目前の課題としてそこにあるように見えます。
そんな中にあって、「絶対の世界」はあまりにもかけ離れた夢物語のように見えます。
しかし、実はそれこそが私たち人類にとって喫緊の問題、何を捨て置いても第一に取り組まなければならない問題ではないのか?
私はそんな風に思えるのです。

果たして何人の方がそれに同意されるのでしょうか?



「正しさ」に裏があるのでしょうか?──Q1

さて、「正しいモノ」とは何でしょうか?
それは実体を伴うものなのでしょうか?
それとも、アタマの中の観念やイメージなのでしょうか?
単なる妄想ですか?

世の中には正しい(と言われている)モノが無数にあります。
しかし、そのほとんどがどうやらとんだ食わせ物だったり、「期限付き」だったり、あるいは正反対のモノだったりします。

その愉快な一例は、以前にもどこかで書きましたが「歯の磨き方」です。
私が小学生の自分、校庭に生徒が整列させられ、「歯ブラシはこのように上から下へ、また下から上へ一方向に磨くのが虫歯予防にも、え~ひいては健康のためにも正しいのであ~る」などという指導をされました。
しかし、その後ニ三年ほどたち、また同じように整列させられ、今度は「強く上下方向に歯ブラシを往復させること」となり、さらにまた”改訂版”が出たような記憶があります。

子供心に「いったいこの人(教師)たちは何なんだろう? 恥ずかしくないのかな?」と思ったものです。
文字通り「子供だまし」ですね。
たかだか歯の磨き方くらいで(と書きますとアレですが)校庭に集めること自体いまだに謎のうえ、少なくともそんなことよりももっと教えなければならないこと、ともに考えなくてはならないことはいくらでもあるのでは、と思うわけです。

いかがでしょうか?
会社も同じではないですか?
TVやマスコミなどは、恥ずかしくなるくらいその繰り返しではないですか?
もっと考えを進められる方でしたら、現代社会には「正しいモノなんてない」と大人顔を繕って諦観されることも多いでしょう。
それが、会社や社会構造などの「外部的な問題」であればまだいいでしょう。しかし、こと自分自身の判断基準がいつの間にかそれに同期され、正しさというものが何か揺れ動いているようであるならば、蛍の光のようにあちこちで明滅しているようなものであれば、ただただ迷うばかりですね。

こういう見方はいかがでしょうか?
「他人のカネは盗んではいけない」
「詐欺は悪いことだ」
それらが、正しいことだと教わってきましたね。

しかし、窃盗や横領や振り込め詐欺は後を絶たない。
当人たちも、それが悪いことだとわかっていながらですね。

つまり、彼らは「正しいこと」を踏み台にしている。
ここでいう「正しいこと」とは何でしょうか?



なぜ絶対の世界を遠くに眺めてばかりいるのか?──Q2

絶対の世界とは何でしょう?
そこは、一切の葛藤やジレンマがない世界です。
つまり、「そういう未来が来てくれないものか」といった願望や懇願が生み出したものではなく、そもそもの対立そのものがなく、始めなきはじめから終わりなき終わりまで「そうある」世界です。

だから映画や物語のように「(そういう世界に)向かう」とか「(そういう世界が)やってくる」という事はあり得ません。
なぜならそれらの行為にはすでに「はじめ」があり、何らかのモーションがあるからです。それは二元性世界を一歩も抜け出ていないさまです。

ではどうしたら、その世界に入れるのか、もしくはその足掛かりになりえるのか・・と考えがちですが、これまた堂々巡りです。
入る」空間はすでに限定されているし、「足がかり」という道具を必要とするものは二元性の象徴ですから。

ここで、気づかされます。
私たちは、ついいつもの癖で(?)それを、対象物として見てしまいますね? いま「それ」と書きましたが、その言葉自体対象物を指しています。この場合の対象物というものは自分を軸にして存在するものですから、それはすでに二元性を自供しています。

「絶対」というものは、字義通り、「対」を持ちません。
対象物ではないのであれば、それはあなたです。
ですから、この世をいくらくまなく探し求めても「絶対の世界」などどこにも存在しないわけです。
まさか、探し求めている張本人こそがその探し物であるなどとは、アガサクリスティーのミステリーでも考え付かない大仕掛けのトリックですね。

しかし、論理でいえばそのような破綻をきたしますが、それをメンタルでとらえるときは、実に単純です。
稀に訪れるあの懐かしいような感覚。
不意にこみあげてくる熱い感情。
悲しくもまたうれしいわけでもないのに湧き出る止めどない涙。



アセンション詐欺とアセンション──Q3

アセンションとは何ですか?
あなたはそれを知っていますか?

「アセンション」とは、巷間でいわれるような出来事なんでしょうか?
「それは春分点がみずがめ座の影響下に入ったこと、フォトンベルトに覆われてくることによって地球が次元上昇することです・・なんたらかんたら」などは、辞書かだれかどこかの先生の「知識」ですね。知識の丸暗記です。
それを正確に答えられるものは進級の「試験」では合格ですが、この「絶対の世界」では不合格です。
(なぜなら、アセンションには「問い」がなければ「答え」もないものだからです)

人は嘘でもまことでも何らかのエビデンスを探り、それを知ることで安心したり共感したりするわけです。
自分の病が○○だと知って、納得するように。
でも大概は本当のところは自分ではよくわかっていません。

第一、あなたが「みずがめ座」の周回を把握しているわけでもないうえに、次元がなぜどういった仕組みで「上昇」しなければならないのかさえ、不明です。
「不明であるが、尊いことだから私は信じる」というのであれば、それは宗教です。
「なんとなくみんなが素敵な世界に行けるのはすごいことだから、私も行きたい」というのであれば、その方はギャラリーです。
ディズニーランドに行ったり、火事の見物に行くのと違いありません。

過去に私も似たようなことを書いてきましたが、分かっていたことですが「絶対の世界」では完璧不合格です。
「絶対の世界」の前で、説明や解説や叙述は何の意味もなさないからです。
それは、娯楽や余興と何らかわらない。
なぜなら、それらは自分の知識か、よくて知恵で書いているからです。
自分と面と向かいたくないものが、そこに逃げるのです。
その前ではそんなものは屑であり、何の役にも立ちません。
ごくごく一部を除いた他の一切の宗教・哲学その他の著作物などと同様に。

では、アセンションは詐欺ですか?
恐らくはほぼそうだと思います。
アセンションそのものではなく、その捉え方がです。
なぜならそれは私たちの「知識」「知恵」を超えたものだから、もしそれを「○○なものだ」と言った途端にそれは嘘になります。



アセンションを「待っている」──Q4

私がその言葉を初めて聞いたのはもう20年ほど昔のことでしょうか。「フォトンベルト」などの用語とセットになっていた記憶があります。
当時は「何という戯言か」と笑っていましたが、笑えなくなってきたのは10年ほど前。どうやらそこに科学(天文学)的な、あるいは西洋占星術的な裏付けがあるらしいことが分かってきたからです。

と同時にこの動きを、というよりもそれにかかわる様々な人たち、その言動をずっと静観しているうちに、奇妙な類似点が見られることに気づいたのです。
それは、「待っている」という一点です。
地球は光輝く惑星になり、そこに悪は存在しない。
人々は肉体を離れ、光へと転ずる・・とかいったような。

何処からか崇高な光が届く。
やってくる。
映画のようなイメージで・・。
それを待っている。
祈っている。
依存している。
聖者のようなたたずまいで神妙に瞑想している。
エゴがただ救われたいと言っている。

私は思います。
そもそも字義通りの言葉であれば、アセンションなどと、口幅ったくて軽々に口に出せない性質のものですね。
少なくとも、(ごめんなさい)まだ年端も行かないような少女らが「わたし、もしかしたらアセンションしてるのかも」などといったCMのワンフレーズのようなことは言わないでほしいのです。
しかし、その子たちに限らず、大方の解釈は辞書的で限定的、独善的で感覚的、コンビニ的、インスタント的で、大同小異です。

アセンションとは、そうした外部からの変化ではない。
(いや、外部・内部という二元論がそもそも不在である)
正確に言えば、「眺めている」という行為、すなわち自分を差し置いて外界に目を向ける以上、それは単なる妄想でしかありえません。
だから、やれ○○が起きた、これはアセンションが始まっている証拠だとかではないですね。
ホワイトハットがどうしたとか、いよいよ金融リセットが起きた、GESARAが始動した、メドベッドが解放されたようだ、といった諸々の情報はアセンションとは一切無関係である。
そう思うのです。

バイデンやトランプやゼレンスキーやネタニヤフについての「情報」は流れても、アセンションについてのそれはマスコミはもとより、インターネットを含むオルタナティブメディアに一切無関係です。
流れるような性質のものではありません。

そもそも「アセンションの情報」という言葉には自家撞着があります。
それは自分の(空っぽの)情報と言っているようなものですから。
それは自身の内部から始まるものです。
何か間違っているでしょうか?

よし地球全体がアセンションしたにせよ、私たちが今のように何ものかに依存するような状況であれば、私たちは取り残されたままでしょう。
そしてまた、どこかの星の神のような存在の手助けによってそれが可能であったとすれば、あなたは永遠に彼の奴隷として生きることになります。



隙間でうごめく者たち(Q4を受けて)──Q5

先日、(あなたが師事されているかどうか分かりませんが)スピリチュアル界隈では相当有名なある「先生」の動画を見ました。
まったく興味がないのでそのたぐいのものは見ないのですが、ためしにどんなものか覗いたのです。
といっても2,3分ですが、もう結構です。

以前にも別な方の動画で、その瘴気に当たって不快な思いをしたことがあるのですが、いったい彼らは何でしょうか?
タレント(芸能人)さんですか?
”波動?”が高い方ですか?
(私のように長く生きてくると顔を見ただけ、その方の発言の一言二言で見抜けますから嫌なものです。2,3年前にE女史を見たときのようにです。しかしどういうわけかそういう人物ほど人気があるのが面白いです。とはいえ、発言の正しい・間違いが私の判断基準ではありません。その発言があきらかに間違っているなあと感じていても、私はその方をもっと全的な意味で好ましく思うこともありますし、それどころか敬服する場合もあります)

一つだけ言えることは、彼らはあなたに「一切を放棄してもいいんだよ」「肩の力を抜きなさい」という甘言(無間地獄)を笑顔で語っています。
しかしすべて「私の道を行くのであれば」という前提条件付きです。
言うまでもなくそれこそが宗教の勧誘の古典的な手口です。

スピリチュアルな道を思い描くとき、それが「現状から逃避したい」という心理(切望・懇願・他者依存)とセットになるとき、かなり危険です。
というよりも、あらゆる導師(指導者・先生)は不要であるし、不要であるのに存在するものは一体何か? 何のためにそこにいるのか? をお考えになれば分かることです。

その方がたとえ悟りを開こうが、アセンドしようが(あり得ませんが)、あなたにとって一切無関係です。
あなたは大金を支払って、そこに取り残されたままです。

(本気でこの分野で詐欺を考えるんでしたらそれこそ「地球温暖化」の分野以上に稼げるんでしょうね。しかし、いまや彼らが詐欺師であるか否かさえ問題になりません。どちらでも一緒です。なぜなら、彼らは、あなたがそうあってもらうべく創造したキャラクターだからです。真贋のリトマス試験紙は、ホンモノは「私を信じるな」と言います。ホンモノはあなたにとって、自身の見たくない面を見させます。闇を炙り出すからです)



二元性とは何か?──Q6

二元性とは現実という幻想のすべてであって、あるいはそうあるように見せられているすべてである。
違うでしょうか?
現実は幻想ではありませんか?
現実が無常でなかったことが、過去にありましたか?
無常に根差した「現実」は、いつか(時間の経緯で)跡形もなく消え去っていきます。
いや、瞬く間に変化してゆきます。
それを幻、もしくは幻想、幻影といってまずいでしょうか?

それは私たちが作っているし、いまも作っている。
それは、「考える」という二元的な行為によって作られる(問題→解決)。
別な言い方をすれば、私たちが時間を作っているのです。
さらに言えば、私たちが二元性を作っているのです。
それに対処しようと考えることで、二元性はさらなる二元性を生み出し、重層的に地上を覆いつくしている。
それがどういうことかと言えば、分裂に分裂を繰り返すことです。
分裂のあらわれは、諍いであり、喧嘩であり、戦争であり、離別であり、孤立であり・・それら一式のコンデンスです。

だから、一枚のレイヤー(世界)で確実に「そうだ」というものが翌日には違うもの(下の層──別の世界)に変わってしまう。誰もがそれをそうだと信じて疑わないが、それは全く実体を持たない。なぜならそれは観念であり、人間が勝手に作り出した仮想の檻だから。
そう思うのです。

仮に、そうした二元性が外敵によってもたらされた、または操作されているにせよ、私たちでそれに対処できるのであれば、それは私たちの責任です。
「考える」という行為は物質世界を創ります。
ナノテクノロジーなどあらゆる最先端の複雑なテクノロジーもそれによってもたらされています。

しかし、私たちは果たして幸福になったと言えるでしょうか?
月や火星に宇宙船を飛ばせるほどのテクノロジーはしかし、最先端の武器(電磁兵器や化学兵器、ナノロボット、またはまだ我々に未公開のものまで)をも作っている。つまり、表向き科学の発展は実は殺戮兵器の発展でもあるわけです。
これは事実です。

それは、「考える」行為が二元性を土台にしているのだから当然ですが、まずいことにそれらはおびただしい知識となって堆積している。
このままずっとこのゲームを推し進めていった先にどのような未来があるのでしょうか?
人間は、そうしたテクノロジーにのみ傾斜して、心のない存在になっていくでしょう。彼らが恐れる「異星人」と全く同じように。



陰謀の層──Q7

真相を究明するものたちは、悲しくも「陰謀論者」という日の当たらないレッテルで呼ばれるようになってしまいました。

通説とは異なる情報、各地の異常現象、戦争の裏事情、宇宙での最新情報等々いわゆるディスクローズを進めることは、ライトワーカーにとって大きな仕事だし、眠っているものを開眼させる意味で意義深いと思います。
しかし、あなたもお感じのように眠っているものは、眼前に事実を突きつけられてもまだ眠っているものです。さながら、大地震の揺れに気づきながらも布団から出ようとしないごとく。

わたし自身そうした情報で大いに目を覚まされたものですが、ここで一つ疑問があります。
それはそうした部分的なディスクロージャーは、あてどなく続くということ。
次から次へととどまるところを知らない。

昔読んだデイビッド・アイクの本で陰謀論における「問題→反応→解決」という方程式が印象に残っています。
それは、首謀者が、まず何らかの火種となる「問題」を作り、その段階で世論などの「反応」を俟つ。(大方は想定内の反応だから)それに見合う筋書き通りの解決策を提示する・・という流れと私は解釈しています。
(第一次世界大戦や、太平洋戦争、911などのトリガーとなった事件などを想起すればわかりやすいですね)

つまり、ストーリーのあらすじはすべて出来上がっているという見方です(初めに解決策という結論があって、それに紐づけて後付けでストーリーを組み立てる。ユダヤの寓話だったか樹に中った弓矢の後から的を描くといったようなやり方)。
仮にこの陰謀の罠が真実であったとき、例えば何らかの法案が可決されるまでのストーリーに、そこにいる右や左の登場人物はすべて物語の駒でしかありえません。
果たして、私たちは、そうしたストーリーのなかで一喜一憂しているべきなのでしょうか?

「問題」があり、それをすぐさま(条件反射的に)「解決」に結び付けようという私たちのやり方に「問題」はないのでしょうか?
それは首謀者の筋書きをなぞっていませんか?
実は「問題」こそが「問題」ではないのでしょうか?
「問題」に反応してはならないのです。
「問題」に入っていかなくてはならない。

あえて「並列的」な言い方をすれば、支配者層というものがあったとして、彼らは本当に知られたくないことは細大漏らさず明るみに出しません。
言い換えれば、日ごろ目にするような彼らがらみの事件・情報はむしろ、彼ら自身の保身のための当て馬、故意のリークである可能性すらあります。

さて、部分開示と似て非なるものとして、他方で「フルディスクロージャー完全開示」という言葉があります。
当然あなたもよく耳にされる言葉でしょうし、私自身言葉面をなぞって納得したつもりでいましたが、よく考えてみれば釈然としない。
それはいったいどういう内容を含んでいるのでしょう?

私は、それは一切の問題の終わりを表すものだと思います。
また、そうあらなくてはなりませんし、そうあったとき、それは「アセンション」と密接な関係を持つことに気づかされます。
それこそが支配者層が絶対に知られたくない事柄だからです。
(それは、「支配の終わり」を示しています)



無限の自由、絶対の正義、永遠の平和──Q8

あなたはそれを理想主義の到達点だとはお考えでないですか?
浅はかな人間の願望、切望が渦巻いたゴミ捨て場、
もしくは打ちひしがれた人間が思い描く最後の逃避の場とはお考えではないでしょうか?

そう思われる方にはそれが正解でしょう。

しかし、そうでないとお考えであれば、
あなたは、その問題を眺めていませんか?
いずれ遠い将来に、あるいは「次元上昇」によって近々に到来するものだと思っていませんか?
いずれにせよ、その問題が、現実と大きくかけ離れたものであるとお思いではありませんか?

もし、どうしてもそのように捉えてしまうのであれば、何がそうさせているのでしょうか?
もし、はなからそうした問題を「世迷言」と一蹴してしまうあなたは、何があなたをしてそう思わしめているのでしょうか?










東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。