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「お前の話はつまらん!」

私は、というかおそらく私も、まずまじまじとTVを見るようなことはないが、それでも家人がかけている番組などが小耳に入ると、チラ見したりはする。
番組の間に挟まれるほとんどのCMは、耳障りなものだが、しかし時折その短い尺のなかに引き込まれるものもある。

昨今では「このろくでもない素晴らしき世界」のサントリーBOSSのCMは,
その”うまさ”にうならされた。爾来最後まで見ることにしている。リアルでいてどこか別世界めく職人やらに交じって、仏頂面の「宇宙人ジョーンズ」というシュールな設定。その世界観が好きだ。「さすがに大手だけあってコピーライターも一流どころを使ってんだなあ」などと、少々下世話の勘繰りを挟みつつ感心して見ている。

ところでCMといえば、忘れてはならないのがアレだ。
私の中では壺に入って忘れらないインパクトのあったアレ。

「つまらん、お前の話はつまらん!」

往年の「キンチョー」のCMで、大滝秀治さん扮する老いた父親が、岸部一徳さんの「息子」が語る教訓じみた話を一蹴する名セリフ。ご存じ一連のひねりを利かせたシリーズの一つ。

当時の新商品「水性キンチョール」のCMだが、「なぜ水性を発売したのか?」という投げかけに、一徳扮する「息子」が「地球環境」うんぬんを語り始める。


要はエコを配慮しての「新商品」(当時)なのだが、その講釈を「つまらん!」と退けるところで、逆に「キンチョーは地球環境に配慮しています」とのメッセージを強烈に訴求している。私は、もちろんCM業界については無知だから、そうした手法やらを知らないが、逆説的でいて、なおかつ視聴者の心に刺さるこのCMは秀逸だと思う。

ちょっと前までは、渦巻きの蚊取り線香は、「金鳥の夏、日本の夏」で日本の夏の風流な代名詞になっていた。このこと自体、この会社のブランディング戦略のレベルの高さをうかがわせる。しかし、住宅事情の変化で「日本の家」も急速に「気密性の高い室内空間を持った家」に変化してきており、あの渦巻を室内で焚くような家庭は減ってきているだろう。それでなくとも、タバコ同様線香の煙そのものにアレルギー的な嫌悪感を示す人が増えているし、臭いに対しても過敏というより、神経質になってきている。いやそもそも「蚊」が室内にいる状況そのものが「アリえなーい」みたいな背景すらある。
そうした時代の趨勢を踏まえたうえでの「新商品」だった。

昭和のあの「風通しのよさ」も過去のものになりつつある。

「日本の夏」の伝統的なアイテムはどんどん遠ざかってゆく

「つまらん話」とは?

ところで、大滝さんの口で言わしめた「つまらん」「お前の話」だが、ここで挙げた「教訓めいた話」以外にもたくさんありそうだ。さしずめ、次のような分類も可能ではないだろうか?

常識的で「取説」のように無味乾燥な話

だれもが知っているありふれた話か「耳タコ」な話

誰も知らないニッチ(専門的)過ぎる話(ただし、そのスレスレ辺りは「大受け」の場合も=「中川家」や「ロバート」のコントのように)

自分がどこ生まれで、どこ大学を出て、どんな会社でどんな仕事について、趣味は何々ですという履歴書的な自己紹介、またはその延長線上の話

長ーい話(私がよく書いてる風な)

中身のない、または希薄な話

体よく取り繕った話

自分の意見や主張がない話

自分の主張を読者に強要する手の話

教科書的で権威主義的な固定概念ガチガチの話

アグレッシブさがない話(眠くなる話)

コンビニ的な便利屋的な内容の話

「奥行」のない話(ありきたりな「ホロっとくる話」や「温かくなる話」)


最後の二つ「コンビニ的」と「奥行」は結構なのでは? というご意見もあるかと思う。もちろん構わないがそれだけでは、一枚岩のような気がする。

ちなみに「コンビニ的」は役にこそ立っても「面白い」のとは違う。化粧品や便利グッズなどの紹介がこの範疇に入るし、ネットで検索するキーワードに準じたあれこれを紹介するようなSEO的アレもそうだろう。

さらに、「ホロっとくる話」的なものは、ほぼ万人が共感するわけで、その意味ですそ野が広い。
言うまでもないが、いずれも「紹介」や「情景描写」だけでは「ふーん」で終わるし、その先を私たちは求めているわけだ。

「脱線」のほうが需要がある

さて、この辺で終われば(私の中では)「つまらん話」になってしまうので、あまり根っこをほじくり返さない程度に「深掘り」してみたい。

私は(そしてあなたも?)学校の授業で、楽しかったのは「授業」ではなく「脱線」だった(のでは?)。

だから、脱線ばかりする先生が好きだった。
数学の先生がどういうわけか「お化け話」をし始めるや、その話に引き込まれたということもあるが、そういう話をする先生がより身近な存在に思えたからだ。

先生にしてみれば、「授業」はいわば生業なりわいであり「義務」でもあるわけで、一方、脱線してまで語りたいそれは、好きなことなんだろうし、どーしても聞いてもらいたいことなんだろう。

ここで言えることは、いい意味での期待を裏切ること、予想外のことは、それ自体かなり「面白い」分類に入るのでは? という見方だ。

冒険小説や、推理小説に始まって、純文学にしても哲学にしても、常識や先入観や既存の価値観やらを打ち破ったところに、「おや?」という興味や好奇心を掻き立てられる魅力がある。

あとは、作家の筆力に負う部分が多いのだろうが、最後までひきつけつつ、結果「そうだったのかあ」と腹に落ちるわけだ。

「つまらん話」がつまらんわけでも、「面白い話」が面白いわけでもない”わけ”

さて、あなたは、キンチョーのCMをご覧になって、いったい「どこ」が面白かったのでしょうか?

「大滝さんの”ボケ”具合」
「2人のキャラの対比」
「2人とも大真面目なところ」
「内心アルアルな会話」(会社の上司の説教や蘊蓄とだぶらせて)」
「そもそもいい年をした親子が神社の縁台で語っているという場の設定」
「一徳さんを会社、大滝さんを購買者に設定。ただし、メッセージをストレートに訴求するのではかえってインパクトがないし、右から左。ここは道徳的すぎて陳腐なメッセージが面白くないという購買者(視聴者)の心理をそのままぶつけることでGO!だ、みたいな制作サイドの意図」


人それぞれで、「面白さ」に説明はいらない。
しかし、私たちの見方や理解度が、実は制作サイドから逆に試されている、という見方もある。

皮相な意味での「面白さ」を面白いという人が圧倒的多数を占めるのに引き換え、その裏ほど実はさらに面白いと見る人は少数だ。
制作側はその辺の按分をわきまえながら料理している。

これは特段穿った見方ではない。

熾烈な競争社会で、ダイレクトに商品の売り上げに響くようなCMや、芸に人生を張っているようなお笑いの、それぞれ業界のプロの方々は、自分のメッセージがどのようにしてお客さんの心に届くかが痛いほどわかっているし、そのうえでの”制作”であるわけだ。



私の大好きな俳優だった大滝秀治さんがお亡くなりになってからもう10年にもなる(2012年10月2日没、享年87歳)。
最後の言葉は、赤塚不二夫先生の「これでいいのだ」だったと聞く。

大滝さんらしいというか、その芸のように含蓄のある言葉だ。


予想外の、時ならぬ「夏」


東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。