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成長

高校を卒業して数年が経過した。未だ学生ではあるがこの時期になると、かつての仲が良かった人たちとご飯に行く機会が増える。たった数年ではあるが話していると時々感じてしまう中身の質。もちろんこれは私が友を見下しているわけではなく、私があの時のまま中身もが止まっているだけである。かつて話していて心地よかった人たちはこうして違う時間、違う環境を歩んでいくうちに中身も成熟した大人へ変化していき、どこか私は取り残されていると感じてしまった。

「高校の時から変わってないなー」身内で集まった時にはよく耳にする言葉だと思う。相手の真意は明らかでないが、恐らく数年前を懐かしむ発言ではないだろうか。そこにあるのは純粋な懐かしさとあの時の記憶を思い出しての発言だと思いたい。しかし、その発言が私には重くのしかかる。

周りはみな、新たな環境やコミュニティでこれまでの自分に加え、新たな自分を構築している。その新たな自分という引き出しの多さが垣間見えた瞬間に私は友に対して変化や成長、あるいは違和感を覚える。SNSの発達で私が知らない友の一面を見る機会が増え、そのように感じた。

果たして私にはそのような新たな自分という引き出しは増えたのだろうか。答えは知っている。これは劣等感とも羨望とも捉えることが出来そうだ。。そうなりたいと思っているからこそ、そこに焦点がいくし、不安もあこがれも一緒に抱いてしまう。

他人と自分を比較するのは個人的に好きではなく、自分を大事にしていきたいと考えていたからこそ、他人との比較にいい意味でこれまで興味を持たなかった。だが、今回ふと感じてしまった、自身の精神と年齢の乖離。友は精神も年齢も同じように成長していき、時には年齢という枠を飛び越え、精神的成長をしている者もいる。今はまだ、たった数年の差ではあるが、20代前半のこの乖離が人生に大きな影響をもつことも十分に予測できる。

みんなと会うことが出来て嬉しいと思う反面、今後はこの乖離が大きくなってしまっていたらどうしようという不安も出てくる。こんなネガティブな感情を抱いたまま友に会うのは失礼なのだろうか。

高校時代があんなにも楽しかったからこそ、負の感情がより一層強くなる。
来年は純粋に楽しめたらいいな。

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