字と年賀状

先週木曜あたりから鼻と喉に違和感があり、薬を飲む生活を送っている。熱があるわけでは無いんだけど、変な臭いを感じ続けているのと喉の奥で痰?がずっと留まっている感覚があり、ベストコンディションとは言い難い状況。今これも布団の中で書いている。

さて、11月ともなればクリスマスのほかに「年賀状印刷受付中!」の表記がスーパーマーケットや郵便局などで見られるようになってくる。

今朝ネットニュースを何の気無しに見ていたら「年賀状、どうやってやめたら良い?ママの嘆き」のような見出しを見かけた。

その記事曰く「毎年年賀状でのやり取りしかしていない人が居り、惰性で送り続けているが、もう今年で年賀状をやめたい。」という、とあるママに対して他のママたちがやめ方をアドバイスするといったものだった。

今年は父と祖母のこともあり、年賀状ではなく喪中はがきを初めて出したわけだが、私は従来年賀状を書くことに躊躇いが無いほうの人間である。

私にとって年賀状とは「日頃会えていても会えていなくても、あなたの事を大切に思っていますよ」と伝える方法のひとつであり、普段直接伝えるほどではないけれど、私が今感じていることをひと言添えてお知らせするツールである。

先ほど「年賀状を書くことに躊躇いがない」と書いたが、むしろ「楽しく年賀状を書いている」くらいこの文化のことが好き。

今でこそ毎年10枚前後しか年賀状を送らないが、ピーク時は50枚近く書いていたのではないかと思う。表面も裏面もすべて手書きで。

私は小学生の頃から社会人に至るまで、何度も休んだり辞めたりしつつ、硬筆の書写を習ってきた。それもあってか、上手いかどうかは別として字を書くこと自体が好きらしい。

上手いかどうかは別としてと書きつつも、普段の字がどうではなく、「丁寧に書こうとした時に丁寧に書ける」「字を見せて恥ずかしくない」ことにはそこそこ自信がある。

字はその人の人柄を表す、を信じているタチで、私は字を「努力して」矯正してきたため、一般的に字があまり上手で無い人の字を見てしまうと、その人の人柄を少し疑ってしまう。

とはいえ私自身も自ら書写を習い始めたというよりは、母が昔から祖母に「あんたは字が下手ねぇ」と言われていたコンプレックスがあり、それを私に経験してほしく無いという気持ちがずっとあり、良いタイミングで友人が一緒に書写を習い始めようと誘ってくれたのがキッカケである。

また、字を頑張ろうと思えたのは小学校3年生の時の担任の先生が「とぱーずさんは字が上手ねぇ」と言ってくれたことがとても嬉しかったから。その先生が別の学校に異動される時の壮行会では「その言葉が嬉しくて努力を続けることができました、ありがとう」という手紙を全校生徒の前で舞台に上がって読み上げた。

努力をすれば自分は出来るんだ、というちょっとした自己肯定感を高められたのも、書写を習っていたからだと思っている。(逆に努力をしていないからそりゃ出来ないさという諦念についても学んだ気がする)

つい最近までその書写教室に籍は置いていたが、引越しに伴ってどうしても通えなくなってしまい、ついに退会してしまった。が、小学生から今までを知ってくれている大人が親以外に居る安心感が今でもある。何かあったら連絡しようと思える人がいることは決して悪いことでは無いと思う。

だから、年賀状をただただ「面倒くさい」を理由にやめたくないな、と思ってしまう。メールやLINEでも良いのかもしれないが、少なくともそれらの方が私にとっては嬉しく無い。

無理して出すものでは無いけれど、年にたった一度相手を慮り、自分の近況を知らせることを「面倒」と感じない私でありたいな…とネット記事を読んで思う、そんな今朝であった。

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