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とあるチケットホルダーの嘆き

ご無沙汰しております。約2ヶ月更新せずでしたが、最近徐々に「note書きたいな」とふと思うようになったので、毎週とは言わずとも思い立った時に書こうかなと思っています。

近況はと言いますと、まず7月から会社の体制が大きく変わった。社内の転出入に関する総務関係を担当しているため、体制が大きく変わる=転出入が多くなる→忙しいという状況に。

また、チームの上長は変わらなかったものの、その上の上長に変更があったため、チームに求められるものが細かく変わり、そこにフィットさせるためにチームメンバー共々苦闘している。

加えてチームの最も仲が良い先輩が先日退職された。退職発表日も最終日も思わず涙が出てしまうくらい、歳も近く先輩というより仲の良い友達のような人だったため、今は寂しくて仕方がない。会社が嫌になったとか、業務がしんどい・辛いとかそういうネガティブな理由ではなく、「初めてやってみたいことが見つかった」というとてもポジティブな理由でお辞めになるため、こちらとしては笑顔で送り出すほかなかったのだけれど。寂しいなぁ。

仕事ができた人かと言われると、「一生懸命な人だった」と回答をあやふやにしてしまうような先輩だったが、「やってみたい」と思ったことに自ら挑戦されるその姿勢を心から尊敬する。

私自身、今の仕事は給料以外の条件が良すぎて辞められない。でも、きっと世界にはもっと心が踊るような仕事もあるんだろうな、と、ふと夢を見る瞬間もある。やってみたいことが大抵土日や夜の時間を使わなくてはならないことなので、今の生活を崩したくないという理由から足踏みをしてしまう。だからこそ、先輩の選択はとても憧れるものがある。

7月にその先輩がお辞めになり、8月には一人産休に入られる。そして8月途中で育休明けの復職される先輩がいる。ということはメンバー数は1.5名減。そして上長を除く私含めて5名のメンバーのうち、3名が時短勤務、1名が通院でよく午前か午後をお休みする方。フルタイムでちゃんと仕事に入れるのが契約社員の私だけという、何とも…何とも…という状態。

先日も「もし明日データが更新されていたら、この資料のデータを朝9時までに修正したい」という上長の言葉があり、少なく見積もっても2時間掛かる修正かつ誰も「自分がやりましょうか?」という言葉が無かったため、朝6時半から寝間着のままPCを開き、ぶっ通しで2時間作業をして納品するに至った。(ちなみに6時半時点で一か八か上長に「更新されてるんですけど…」とメールを送ったら「他エリア分もお願いしても良い?涙」と速攻返信が来た。この人何時から仕事してるんだ)

逆に夜までの仕事についても時短組がお子さんの面倒があって担うことが出来ず、16時以降に修正が必要になったものについては、ちゃっかり私が作業をやらざるを得ない状況になる。最近は仕事を終わりに出来る時間が読めなくなってきて少し困っている。

この状況は給料を上げてくれと流石に思ってしまう部分ではあるけれど、無論そんな権限を上長たちが持っているはずもない。でも退職された先輩のこともあり、何か動かなければという焦燥感によって、取り敢えず副業関連の本を読み始めたところ。具体的に何か動き始めたら、またnoteに書いていきたいと思う。

仕事についてはまぁそんなところで、プライベートに関してはまず、旦那さんの祖母が先々週亡くなった。体調が芳しくなくなってからは面会許可がおりたため、何度か施設に行ってはいたものの、先々週お見舞いに行ったその帰り道に訃報が届いた。

そんなこんなで先週は葬儀に参列した。自分の父、祖母の時は知り合いしかいない状況だったが、今回については完全アウェイな立場だったので「初めまして、○○の妻の△△です」というやり取りを何度もした。人と出会うこと・話すことは好きなので一連のやり取りをネガティブに捉えているつもりはないけれど、やっぱり少なからず気は張っていたのか、帰宅した時にはヘロヘロになっていた。

来月には納骨で同じように親戚が集まるが、今回作った関係性を元に少し気軽に臨めたらと思う。

今回の葬儀は火葬のみの無宗教葬ということで、これまた知らないマナーだらけで勉強になった。お花を手向ける手順は勿論のこと、お骨を拾うときは仏教ではないので二人で掴むのではなく一人ひとりが掴むようになったり、御霊前の必要の有無なども親戚と相談が必要になったりと、まだまだ知らないことがあると改めて思った。

とは言え成長していた姪を膝で抱っこすることが出来、癒しの時間を過ごすことも出来、それは幸せなひと時でもあった。

今日も旦那さんはお祖母さんの遺品整理と自宅の売却に向けて、お義母さんをフォローするために朝から出掛けていった。

いかんせん慣れないことであるため、お義母さんも分からないことが多いようで、ここのところその経験値だけやけに多い私と旦那さんの知識が役に立ちそうなのだ。先日も父の時に葬儀屋さんがくれて使用したチェックリストをお送りしたところ、すぐにメールでお返事をくださるくらい有り難がられた。送って良かった。

私の祖母の件についても、親戚とのやり取りがスムーズにいかないために母の鬱憤がかなり溜まっているようで、時間を見つけては夕飯の買い物ついでに話を聞いて発散してもらえるよう心掛けている。ただ、本当に少額にはなりそうだが母の実家である祖母の家が売却出来たらしく、大きな荷がひとつ下りたようで少し安心した。

noteでも書いていた父の遺品については、無事に出品がほぼ終わり、この2ヶ月半で取引件数は100件を超えた。仕事が始まる前や昼休み、終業後の時間を使って郵便局やヤマトを行き来する生活にも段々と慣れてきた。

お盆には父の実家に行って、お墓参りをしたいと思っていたけれど、ワクチン接種が間に合いそうにないことや緊急事態宣言の発令を受けて取り止めになるかもしれない。県を跨ぐ移動はハードルが高い。

…と、ここまで長々と書いておきながらやっとこさタイトルに触れるけれど、まもなく五輪始まりますね。

私は幸いにもチケットが当選していたため、有観客を信じて、これまで色々なことを自粛して過ごしてきた。仕事は自宅でのリモートワークを中心に、外食は極力せず親族とだけ且つ黙食必須、趣味の映画や舞台もなるべく一人で行く、運動不足は地元を散歩する程度に済ませる…など。緊急事態宣言中もまん防の時も政府の言うとおりに外に出なかった。

だけど、先日ついに無観客での開催が決定されてしまった。これまでの私の自粛は何だったのだろう、と思ってしまった。

日々闘ってくださっている医療従事者の皆さんや度重なる緊急事態宣言で生活が本当に苦しくなっている様々な職種の方、色々な立場の人がいるのは百も承知。「オリンピックは中止しろ!」という意見の人がいることも勿論分かってる。

でも、残念だけれど、今の事態は一部のルールを守らない人たちのせいで起きてるんじゃないかと思わずにはいられない。

「酒類提供禁止」について「どうして」と言う人たちも多いけれど、お酒を飲むと多くの人は耳が遠くなって声が大きくなってしまうことは間違い無いし、相手に聞こえないからマスクを取って声を出す。

同僚の結婚式の披露宴に参加したチームメンバーからは「最初こそみんな交互に食事をするように心掛けていたけど、段々とそうはいかなくなって、みんなマスクを取ってご飯食べながら喋ってた」という話も聞いた。

「聖火リレーが地元に来たから直接見に行っちゃったけど、かなり密だった」という同僚もいた。

「三密」と「食事」を避けたら、もう少し早く事態は収束に近付いたんじゃないかと思う。

これは聞く人が聞けば何てことを言うんだ、と思われてしまうのだろうけど、私はオリンピック開催には今でも賛成派です。命を懸けてスポーツに取り組む選手の姿が人々へ与える勇気や希望は、想像を遥かに超えるほど大きいものだと思うから。

勇気や希望の話をするなら五輪だけやって、他のイベント中止はおかしいだろっていう意見は分かる。だからこの意見については否定しない。政府も認めてイベントを中止しないでやれば良い。

だけど結局は一人ひとりがルールを守ることが出来るかどうかなんじゃないの、って思うんです。

最近少しずつではあるけれど、福沢諭吉の『学問のすすめ』の現代語訳版を読んでいる。ここに書かれていたことが、私にとって「まさに」と思ったので、引用する。


世の中で学問のない国民ほど哀れで憎むべきものはない。知恵がないのが極まると恥を知らなくなる。自分の無知のゆえに貧乏になり、経済的に追い込まれたときに、自分の身を反省せずに金持ちをうらんだり、はなはだしくなると、集団で乱暴をするということもある。これは恥知らずであり、法を恐れない行為である。世の中の法律を頼りにして、身の安全を保って社会生活をしているにもかかわらず、依存するところは依存しておきながら、都合が悪くなると自分の私利私欲のために法律を破ってしまうやつがいる。矛盾してないだろうか。
(中略)
もしも、国民の徳の水準が落ちて、より無学になることがあったら、政府の法律もいっそう厳重になるだろう。もし反対に、国民がみな学問を志して物事の筋道を知って、文明を身につけるようになれば、法律もまた寛容になっていくだろう。法律が厳しかったり寛容だったりするのは、ただ国民に徳があるかないかによって変わってくるものなのである。
厳しい政治を好んで、よい政治を嫌うものは誰もいない。自国が豊かになり、強くなることを願わないものはいない。外国にあなどられることをよしとするものもいない。これは人の当然の感情である。
いまの世の中に生まれて、国をよくしようと思うものは、何もそれほど苦悩する必要はない。大事なことは、人としての当然の感情に基づいて、自分の行動を正しくし、熱心に勉強し、広く知識を得て、それぞれの社会的役割にふさわしい知識や人間性を備えることだ。そうすれば、政府は政治をしやすくなり、国民は苦しむことがなくなり、お互いに責任を果たすことができる。そうやってこの国の平和と安定を守ることが大切なのだ。
(ちくま新書『現代語訳 学問のすすめ』福沢諭吉、齋藤孝(訳))


オリンピック開催都市である「東京都」の都議選の投票率は過去最低から2番目の42.39%。半数以上が投票をしなかった。中には「オリンピックには反対だし、何も変わらないから投票しない」という全く理解できない人もテレビの街頭インタビューで見かけた。だったらオリンピック中止を掲げている党に投票すれば良いだけのものなのに。

昨日のサッカー日本代表対スペイン戦の終了後、吉田麻也選手のインタビューが途中で切れたことは日テレさんに文句を言いたいところではあるが、彼が発していた言葉は強く胸にくるものがあった。

「アスリートは当たり前ですけどファンの前でプレーしたい。今日もそうですけどあと10分、苦しい時にサポーターの方々のエネルギーは確実に僕らの助けになる。」

「ソーシャルワーカーのみなさんが毎日、命をかけて戦ってくれているのは重々理解しているし、オリンピックができるだけで感謝をしないといけない立場にあるのは理解しています。でも忘れないでほしいのは選手たちもサッカーに限らず命をかけて、人生をかけて戦っているからこそ、この場に立てている。」

選手がこのタイミングで自身の意思を表明することは何て勇気がいることだろうと思う。

実は幼稚園と小学校の同級生が選手としてオリンピックに参加することもあり、選手側目線に立ちがちな私です。五輪に限らず、何でもかんでも中止しろという方向に持っていくのではなく、「中止しないための行動」を国民一人ひとりが心掛けていける、そんな世の中であってほしいなと思います。

久々に書くと長くなりがちですが、また色々と不定期ながら書いていきたいと思います。暑さには気をつけましょうね…!

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