日記 『カント入門』など

完全に3日坊主になっていた・・・。この間、「朝起きて書こう」と思い続けて、1回も朝起きられなかった。だるく、体を引きずるように仕事していた。というか実質的に仕事をできていなかった。いろいろとマズイのだけど、なんだか、まあいいか、とも思っていた。日照りの日もあれば大雨の日もあるのだし。

この間の大きな変化はテレビを買ったこと。ワクチン接種で熱が出るのにテレビがないとか寂しいなと思い衝動買いした(そんな理由)。こどものころ、熱が出ると学校をやすんで普段は見られない昼の力の抜けたテレビ番組をダラダラ見るのがなんとなく好きだったので。

読んだ本とか見た映画のことで、書きたいこともあったのだけど、忘れてしまった。だいたい2週間ぐらいしか覚えていられないんだよな。まぁでも一応書いておくか。

・『ライティングの哲学』

noteのフォーマットは書きやすいということが書いてあった。たしかに制約があったほうが書きやすい。書くことは断念することなのだ。

「対談 → それぞれの実践記録 → 対談」という本の構成が面白いと思った。ラフに書く、負荷を軽くして書く、自己(超自我)から逃れて書く、という本の趣旨と、このざっくりした構成が合っている。読書猿さんの記録がいちばん好き。

原稿用紙とエンピツで書いていた昔の人はもっとダラダラ書いていた、ダラダラ書くことが多産のコツ、という指摘は本当にそうだと思う。段落間の飛びや繰り返しをおそれない、要は過度に編集しないということ。

読むほうとしても遊びのある文章のほうが読みやすかったりするしね。

・石川文康『カントはこう考えた』『カント入門』

名著だった。もっと早く読んでいたらよかった。

いま出ている読書会でカントの話題になったのだけど、2年前くらいに『純粋理性批判』を通読したのに、ぜんぜん思い出せなくて、やっばい、復習しよ、通り一遍のことが知れればいいや、という気持ちでまず『カント入門』のほうを読み始めて、最初のほうのアンチノミー論の解説で、そんな安易な気持ちはふきとんだ。いや、なんだこれ、めちゃめちゃ重要なことがサラッと書いてある!

世界それ自体は存在しない――第一アンチノミーの内容」p.37ってとこですね。いきなり開始37ページで、この本の肝が書いてある。

(第一アンチノミーの)テーゼは、世界が空間・時間的に有限である、と主張していた。一方アンチテーゼは、世界は空間・時間的に無限である、と主張していた。ところが、すでに見てきたように、それぞれの証明が完全に成功しているとすれば、両方の命題はともに明らかに偽と判定される。ということは、世界は有限でも無限でもないという帰結につながるのである。もしそうであれば、有限か無限か決めかねるというのではない。そうではなく、きっぱり有限でも無限でもないということになる。これは驚くべき事態を告げている。なぜなら、そのことは要するに、世界はそもそも大きさをもたない、いかなる大きさももたないということを意味しているからである。(中略)同一の理性が相反するテーゼとアンチテーゼを同時に証明することによって、結果的に、世界はじつは存在しないと主張しているのである。「ある」ものが、しかも世界という絶対的に「ある」と思われているものが、これによって「ない」に転じてしまう。少なくとも、どうみても「ある」ように見えるものが、じつは「ない」のだといわれているのである。

ところで、カントは主観と客観、独我論と唯物論を調停したわけだけど、この2つもアンチノミーなのではないか、と思えてくる。「主観世界」「客観世界」ということばを違和感なく使うように、主観も客観も、世界すべてを覆うように思える概念だ。世界が存在しないなら、主観・客観も存在しないのでは。相対的には意味をもつが、絶対的には(極限においては)意味を失ってしまう言葉なのではないかと思う。

「思う」だけでなくて、ちゃんと突き詰めて考えてみたいが、いまのところそういう能力がない。

付記:いや、読み直して思ったけど、客観=世界だとして、とりあえず「世界がないのだから客観はない」としよう。では「我思うゆえに」式に主観だけがあるのか? 独我論をつきつめると実在論に転じる(@ウィトゲンシュタイン)というけれども、それも主観が基底にある感じがして、でもその主観を否定したい気分なんだ。

「主観と客観はアンチノミーなのでは?」という思いつきで言いたかったのは、主観をつくっているのは客観(物理世界)で、でもその物理世界をつくっているのは主観(認識)なんだ、その円環がアンチノミーを感じさせるということ。

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