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石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』~食のエクリチュールvol.6~

 食にまつわる書籍を紹介する“食のエクリチュール”シリーズ。  

 第6回は石井好子『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮らしの手帖社)。 

 プルーストのマドレーヌのエピソードを引くまでもなく食と記憶の関係には深いものがある。 

 本書でも食と食が呼び起こす記憶が印象的に語られる。 

 「長いことパリで楽屋生活をしていたけれど、寒いころの夜食といえば「グラティネ」ときまっていた。グラティネとはグラタンのことで、玉ねぎのグラタンスープの通称だ。夜中おそく仕事が終わってお化粧をおとして、厚い外套に頬をうずめ、木枯らしの吹く表通りに出る。「グラティネたべていかない」誰か一人がそいいえば、みんなで賛成して、まだ灯のついている角のキャフェへぞろぞろと入ってゆく。パリの安キャフェのグラティネは、どんぶりのような瀬戸の焼きなべの中で、まだぐつぐついっているのを、テーブルまではこんでくる。冷めたくひえた白ブドー酒を一杯と、この熱い熱いグラティネ。スチームであたたまったキャフェの中は、人いきれと煙草の煙でむんむんしている」 

 「パリの盛り場では、よくポムフリット(フレンチポテト)を売っていた。横町の角に大きな揚げなべをおいて、目の前でじゃがいもだけ揚げている。1センチ角の拍子木に切ったじゃがいもを、こげめのつくまで揚げたのにパラパラと塩をふりかけ、ボール紙の小さなものに入れてくれる。一袋30フランぐらいからあって、私たちは休憩時間にときどきこれを買いに出かけた。買いに出かけた人が楽屋にもどってくると、みんな、「油くさいわ、ポムフリット買ってきたんでしょ」とあてるくらい、揚げあがるのを待つ数分の間に、油の匂いがコートや髪にしみついていた」 

 「私の前にはあから顔のでっぷり太ったおじさんが、一人でプレ・ココット(トリ料理)を食べていた。その顔をながめて、「ああ、私はフランスにいるんだ」と、あらためてしみじみこころに感じた。冷たくひやした辛口の白ブドー酒を前にして、骨つきのトリを熱心にたべているそのおじさんの嬉しいそうな満足そうな顔つきは、「つらい勤めもこの楽しみあらばこそ」といったふうで、フランスでなくては眺めらない風景だった」 

 簡潔でありながらつぼを押さえた、平易でありながら臨場感に富んだ、好奇心旺盛な食いしん坊の姿とぐつぐついっているグラティネやポムフリットの揚げ油の匂いが漂っている様子が目に浮かぶような文章だ。 

 石井好子は、いわずと知れた日本シャンソン界の草分け的存在。遡れば大隈重信に至る出自であり、ボーヴォワールやサガンの翻訳で有名な朝吹登水子と並んで(2人は遠縁にあたりパリでは一緒に住んでいた時期もある)日本女性のパリ生活者の草分け的存在でもある。本書の初版は1963年(昭和38年)。石井好子が始めてパリの地を踏んだのは1952年である。 

 そうしたキャリヤに似あわない、構えたことろや気取ったとこが微塵もない気っ風がよい文体も本書の息の長さの由縁であろう。 

 食が喚起する記憶について、なんといっても白眉といえるのは、タイトルにもなっているいるオムレツを語った文章だろう。 

 初めてパリで暮らしたセーヌ左岸のエッフェ塔近くのアパート。その粗末なアパートの未亡人のマダムは白系ロシア人で住んでいる人の多くも亡命ロシア人だ。 

 夕方、洋服のままベッドにねころんで、しょざいなくアパートの中庭から伝わってくるざわめきを聞いているわたし。お皿に触れ合う音、こどものカン高い声。ギターを弾きながら歌うロシアの歌が低く聞こえてくる。 

 「夕食にしましょうか」とマダムが声をかける。 

 狭くて細長くて中庭に向かった窓がある台所。いつも片すみには事務員が切るような木綿の上っぱりがかかったいた。食事はきまってコンロや流しが置かれた細長いテーブルの片隅。 

 「今夜はオムレツよ」とボウルのなかの卵をかきまぜてながらマダム。 

 熱くなったフライパンにおどろくほどの量のバタを入れる。 

 「ずいぶんたくさんバタをいれるのね」

 「そうよ、だから戦争中はずいぶんこまったわ」 

 熱くなったバタにいきおいよくさっと卵を入れるマダムの手つき。 

 オムレツを作りながら、戦争中はバタに困ったので、代わりにハムのアブラ身を使ってオムレツを作った、それが案外おいしいのと、懐かしそうに語るマダム。 

 「オムレツは強い火でつくらなくてはならない。熱したバタにそそがれた卵は、強い火で底のほうからどんどん焼けてくる。それをフォークで手ばやく中央にむけて、前後左右にまぜ、やわらかい卵のヒダを作り、なまの卵の色がなくなって全体がうすい黄色の半熟になったところで、片面をくるっとかえして、火を消して、余熱でもう一度ひっくりかえして反面を焼いて形をととのえたら出来上がる」 

 「「おいしいな」、わたしはしみじみとオムレツが好きだとおもい、オムレツって何ておいしいものだろうとおもった。もっとも、私は子供のころから卵料理が好きだったが、そのときのマダムのオムレツが、特別おいしいとおもった」 

 2人の短い会話文の間に当時の回想やその場の様子やオムレツの料理法などが挟まれ、オムレツを軸にしてさまざまな記憶と時間が展開してゆく、読んでいる者が思わず引き込まれそうなる見事なテンポと構成だ。 

 自分もパリのアパートの狭い台所でマダムの側でオムレツができあがるのを待っているような、出来立てのマダムのオムレツを目の前にしているような、そして戦後まもないパリの夕暮れに一人しょざいなげにベッドに寝転がっているような、そんな錯覚に陥ってしまう。 

 初めてのパリ生活を思いおこしている現在の時間、第2次大戦の影がまだ色濃く残っている戦後という時間、マダムの手で手際よくオムレツが作られていく時間、まだ慣れないパリの夕暮れのひと時、オムレツを作るための手順として記された時間、マダムのオムレツをしみじみ美味しいとおもった瞬間、ここではこうした複数の時間や過去が重層的に相互侵食的に組み合わされて語られ、それはまるで、我々が記憶と呼んでいる気まぐれでランダムで不思議にヴィッドなものそのものを表象しているかのようなエクリチュールだ。 

 オムレツが喚起するさまざまな過去の時間とそれらを一瞬のうちに感得する現在の時間。 

マルセル・プルースト

 「われわれの過去もまたそのようなものである。過去を喚起しようとつとめるのは空しい労力であり、われわれの理知のいあらゆる努力はむだである。過去は理知の領域のそと、その力のおよばないところで、何か思いがけない物質のなかに(そんな物質があたえてくれるであろう感覚のなかに)かくされている。その物質に、われわれが死ぬよりまえに出会うか、または出会わないかは、偶然によるのである」(マルセル・プルースト 『失われた時を求めて』 引用は井上究一郎訳(ちくま文庫)) 

皆さんは、なにによって、どんな記憶を喚起されるのでしょうか。

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